topimage

弓山達也仮想研究所

2010年の誓い:今年こそ納期を守り、納品の質を高める!


 こんにちは。私は現在、「現代世界における宗教性/霊性」をテーマに研究を進めている大学教員です。具体的には〈癒し〉〈自分探し〉〈霊性〉などをキーワードに現代宗教などの調査をしています。
 本務校の大正大学では教授として人間学部の講義を担当しています。また(財)国際宗教研究所で研究に携わる他、慶應義塾大学と國學院大学と聖心女子大学で兼任講師をしています。
 このサイトは私の研究、教育、趣味を紹介するとともに、講義受講者への情報提供や交流の場となることを目的としています。

学生が画いてくれた弓山達也の肖像(2009年7月14日)

2010-01-25

今期最後の教室

本日で講義はおしまい。今期、最後にあたったのは聖心女子。正確に言うと、講義は先週の月曜日で終わっていて、今は試験期間。でも最後のまとめというか、あと30分ほど喋りたいことと提出物があって、ほとんど誰もいないキャンパスに出向く。講義というより茶話会という感じなので、ケーキを買っていったら、受講生のお母様が手ずから焼かれたケーキが用意されていて、、、、正直、負けた。
この講義、比較文化宗教学演習といって、3年生に卒論計画書作成を指導するもの。5名の少人数に講義補助(TA)までついて、いたれりつくせりである。卒論に特化した演習って、僕が知る限り、ここだけである。研究計画書の最終提出もしてもらったが、さすがに1年間かけ何度も書き直しただけあってずっしりと重い。いろいろな大学で卒論廃止の議論がなされている。就職活動に支障をきたすからとか、別に学者になるわけじゃないのに卒論書かせてどうするとか、卒論が書けないというのが、その理由だろうか。
「恋愛と受験は両立するか」「部活とは?」みなたいな幼稚な議論だと思う。要は就活でうまくいき、卒論も立派なものが書ける、そうすれば学者になるとかならないとかという極小的な話ではなく、立派な大卒であることに間違いない。教員はそういう指導をすればいい、、、、と自戒を込めて思った次第である。
色紙にお菓子、サンキュウである!

2010-01-19

受験生、頑張れ!


受験シーズンということで、そうした報道が目につく。のみならず実は娘も受験生なので気になる。勤務先でも入試業務のウエイトが重くなる季節である。
そうしたなか、妻の上司がコンビニ袋を持ってやってきた。開けると写真の品々。御利益満タンのグッズである。

2010-01-15

東京ジャーミー


NCCのゼミ(プロジェクト研究)のフィールドワーク(多様な文化と価値観の共生の模索)の一環で、代々木上原のモスク(東京ジャーミー)に学生と行く。4回目の礼拝に参加し、礼拝やコーラン、すべてトルコから原材料を運んだという東京ジャーミ内の施設、ムスリムの生活についてのレクチャーを受ける。モスクでの礼拝は3回目の体験だが、美しい旋律と信者のまじわりの様子に心打たれる。

2010-01-01

実家のおせち


本年もよろしくお願い申しあげます。
ということで新春である。いつもは2日に実家(といっても母の住む保谷)に行っているが、今年は元旦に訪問。無線LANが完備されていて驚いた(母は60歳代後半の一人暮らし)。毎年、「来年はおせちやめるわ」と言いつつも、このように立派な料理を作ってくれる。感謝!! 酒は青雲酒造の純米吟醸樽酒仕様の無為である。

2009-12-31

大学のコース制と企業のグループ制

何年か前から年賀状の差出人欄に○○部○○課(○○グループ)と書かれているものが現れた。その企業に特有な部署表記なんだろうと思っていたら、いただく名刺に同様なグループ制が目立ってきた。年末恒例となった高校の柔道部の同期会(僕はほんの一時期柔道部だった)で、やはり企業勤めの友人がグループ云々というので、それが何だか聞いてみた(ちなみに友人はバブル期に就職しているので、みんな垂涎ものの一流企業勤め)。
何でも業務が複雑化・多様化・流動化していると、かつてのように部署にあてがわれた仕事だけやっていればいいとう訳にいかず、しかし新しい業務ごとに部署を作っていると、どんどん従業員が増えてしまう。一人が、いくつもの部署に属して複数の業務を中短期間に関わるには、所属と並んでグループ制を用いると、そのグループはいつでも統廃合できる。
ああ、そういうことか、、、大学でいうとコース制がそれにあたる。かつては○○学部○○学科○○専攻しかなかった。せいぜい専攻のサブカテゴリーとして○○コースというのがあったが、今の大学改革の中でおきているコース制は、少し違う。時代にあった(というと聞こえがいいが、高校生受けする)コースを新設し、ダメなのをつぶしていく。その度に教員の異動・新任・退任をしていては大変。だから教員の所属は学部学科で、教育をコース制にするという二枚看板なのだ。
勤務校は昨年度からコース制になった、まだ新設はあるものの、閉鎖となったコースはない。当然、統廃合するには混乱がつきものであろう。ただ混乱を恐れては改革はできない、、、そして、その混乱の多くは学生に負担を強いるものであるが、それとても教職員側のフォローとサポートがちゃんとしてれば済むことだ、、、むしろより上質な学習・教育・教育内容を提供するためにコース制を活用すべきじゃないかと、、、今までコース制に冷ややかだったが、企業勤めの友人の話を聞いて、妙に納得した。

2009-12-29

仕事納め

大学が年末年始の休業で閉まるので、仕事納めである。ただ仕事と余暇の境のあいまいな研究者という職業柄、職場が休みになったからといって僕の「休み」がくるわけではない。いつでもどこでも「仕事」がついてくる。何とも緊張の途切れないやっかいな職業かもしれないし、考えてようによっては、いつでも「好きなこと」をやってるのだから遊んでいるようにも見えだろう(実際は前者の側面が強いのだが)。
いずれにせよ仕事納めである。大学のパソコンのファイルを整理し、不要な書類を片付け、年明けの講義の準備などをする。他大で面倒を見ている学生が数名、卒論指導に来た。偉いことにワイン持参であった。ついでに発送作業など手伝ってもらった。夜、少し時間があるので、いつもお世話になっている店で飲み納めをする。ただお世話になっている店は3つほどあって(1)ビールに餃子か、(2)やきとんに焼酎か、(3)刺身に日本酒かまよったが、(2)の高木に行く。1時間ほどでバイトがある学生が帰ったと思ったら、別の学生がバイト先から来たり、バイトに行ったはずの学生が戻って来たりしたので、(3)のあんどんで飲み直す。あんどんで(1)の華興のおばちゃんと会って、はからずも(1)〜(3)の候補店の方々全てに一年間のお礼を述べることができた。個人的に恒例にしている守衛さんへのお礼もして実に仕事納めらしい一日であった。

2009-12-28

人生の加速化は続くのか

例年、この時期になると「あっという間の一年だった」とか、「年の瀬という感じがしない」とかと言っているし、聞いている。前者と後者は同世代が異口同音に言うことだが、後者は学生も口にする。つまり僕は世代的にあっという間に時間が経つライフステージにいて、かつこのご時世、誰もが慌ただしさのか、のっぺりしているのか判らないが、季節感とか、一年を振り替える余裕もないというか、そんな状況なんだろう。(どんな状況なんだ?)
実は2つの疑問がある。
一つは、このまま歳を重ねていくと、もっと一年が早く感じられるのだろうか。それともある程度まで加速して、あとは緩やかに時間が過ぎていくのだろうか。一回り以上歳の違う団塊の世代に聞いてみると、まだ「あっという間」ということだから、この問いは70歳代、80歳代に聞くしかない。
もう一つは、考えてみると僕の父は55歳定年制のもと、55歳を待つことなく、病気ということもあって54歳で職を辞している。その後、断続的に数年間は働いていたが、それは父の人生からすると「おまけ」のようなものであったと思う。父の年齢になるまで8年ほどである。55歳になった僕は、まだ、こうやって年の瀬に仕事何だか休みなんだかわからない感じで、PCの前に座ってブログのようなものを書いているのだろうか。畏友の荻原さんは学生時代から「55歳で隠居」というようなことを言っていたっけ? 彼の今の気持ちを聞いてみたい。

2009-12-08

仏式の上棟式


勤務する大正大学の新研究棟の上棟式が行われた。もちろん仏式である。建設会社と設計会社の方が「実は上棟式に出るのは珍しく、ましては仏式ははじめて」と口々に言っていた。僕も半袈裟を身につけ出席し、その後、工事用エレベータで8階まで見学した。上棟式といい、見学といい、貴重な体験であった。

2009-12-05

アートミーツケア学会で報告

アートミーツケア学会という学会の「大学地域連携によるコミュニティの居場所」部会で、自分が運営委員をつとめる「大正さろん」について報告、議論をしてきた。登壇は慶大の芝の家、宇都宮大のソノツギという同じような大学発の地域コミュニティをやっている教員・学生だ。当日は15時半-17時半が部会だったが、10時集合で、芝の家の見学、打ち合わせ、18時から交流会と終日行動だった。
議論を思い出すままに並べてみると、各団体の活動で互いに注目したところ、大学や行政にどうアピールするか、どう距離をおくか、スタッフのモティベーションやリクルーティング、利用者との関係・拡大など。こうしたコミュニティは2000年に入って、各大学で展開されているが、横の連携はほとんどない。部会後、同様の試みを考えている教職員から問い合わせをいただいた。
実は、部会中、部会後、僕はかなり自分の「さろん」との関わりについて、反省や熟考をすることとなった。今までよく「さろん」活用を考えていますとという言い訳で、教育活動に「さろん」を組み込んでこなかったが、考えてから「さろん」に行くのではなく、「さろん」で「さろん」活用を考えることが重要なのだ。そして慶大のコミュニティがそうであるように、教員の担当制の必要を痛感するとともに、「表現」「遊び」「愉しさ」の要素の再発見もあった。
来年度は僕が担当するゼミと大学院講義が同じ曜日にあり、また現在、その曜日は留学生の昼食の定例会も開催されている。一連の講義・企画を「さろん」で開講し、常駐してみようかなと本気で考えている。

2009-12-03

メーリングリスト騒動補遺

メーリングリスト騒動顛末記を書いた後、面白いように、また一悶着あり、思索が迫られた。
携帯が、喋ったり、うなずいたりと同様に、また携帯を中心に動いていることから(文字通り携帯を握りしめているものね)、携帯が身体の一部であることには、もはや異論はないだろう。携帯メールは「やあ」「こんにちは」のやりとりと同じ。しかも口述に近いので携帯メールはあやふやだ。「アレ、書いてあったけ?」とか、「そのメールもらってない」とか、よくある話だ。口述の世界はそれでいい。言った/言わないは大人げないから、「まぁ、いいや」で済む。
ところが携帯メールは口述というリアリティをひっさげながら、再帰可能な文字データでもあるところが厄介で、とても危うい。つまり僕のようなPCメールから始めた世代は携帯メールにも文字データのやりとりの厳密性を求めるが、携帯メールから始めた世代は、身体感覚で携帯メールに接するので、そんな厳密性など関係ない。
こうした携帯の身体性を否定はできない。我々は譲歩しよう。しかし研究・教育に関わる限り(というか普通に仕事では)、文字データの厳密性は譲ることできない。携帯とPCとの使い分け、機能分化、両刀使いを徹底するしかない。
[続き]