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井上順孝『新宗教の解読』筑摩書房、1991年

   一
 近年、新宗教に関する書籍は数多く出版されている。しかしそのほとんどが興味本位で書かれていたり、また単なる教団紹介で終わっていたりしているのが実情である。例えば現代の新宗教をめぐる現象を理解するのに何か一冊と尋ねられた場合、そう多くの研究書をあげることはできない。そしてこのことは新宗教という現在進行中の現象を的確にとらえることが、いかに困難かということを如実にあらわしているともいえよう。
 さて三年前に編者の一人として『新宗教事典』(弘文堂)を刊行した著者が、その蓄積と手腕をもって執筆した『正論』誌上の連載をまとめたものが本書である。表題通り、近現代の新宗教全体を扱い、読み解く内容となっている。以下、本書の構成と特色を述べていこう。
   二
 本書は一二章構成で、章ごとにテーマが設定されいるが、だいたい以下の四点が著者の本書執筆の主な視角のように思われる。
 ?まず情報化の進展とからめて、マスコミやジャーナリズムと新宗教との関係に強い関心が寄せられている。著者はマスコミの報道姿勢が社会的な新宗教観を決定するとともに、そこには人々の新宗教に対する漠然としたイメージが投影されているとする(第1章)。そして明治期の蓮門教と天理教に関する報道をおいながら、急速に拡大する教勢が人々の不安をかきたてながらも、新宗教が社会に根付き始めた様を描きだしている(第3章)。さらに現代のマスコミによる宗教批判を分析し、人々の宗教観や社会正義感をあぶりだしている(第10章)。
 ?同じように国家との関係や法的規制についても言及されている。新宗教は、近代日本に出現した一つの新しい宗教システムであるというのが本書の一貫した立場であり、こうした新たな勢力が活動を合法化するためには、布教・教化することが許される教導職の資格をとる必要に迫られたし、既存の宗教団体の傘下に入らざるをえなかった(第2章)。しかし急速に天皇の権威が高められ、愛国心が鼓舞されはじめる大正末からは、国家の依拠する原理をラディカルに推し進めようとする、またはこれと異なる原理を有する新宗教が軒並み取り締まられていった(第5章)。
 ?新宗教自体の変容に関してもかなりの分量がある。雨後の筍と称された敗戦後の新宗教のまさに簇生ともいうべき現象も、よく検討すれば、戦前からの運動を継承している教団が多く、いくつかの教団を除いてほとんどは一種の「マイナーチェンジ」だとする(第6章)。そして新宗教が既成化をたどるなか大型化し、その背景には教団のもつ万人布教者主義的な拡大再生産志向や時代の変化を先取りするような戦術があるという(第7、8章)。
 ?本書の後半部(第10〜12章)は新宗教の「新」の部分を問うているといってよい。ここでは宗教ブーム論や新新宗教論を、実態に即した概念ではないと批判し、さらに新宗教の類型化をいくつか提起している。そして最後では、知的レベルの向上、人間関係の変化、情報化の社会変動によって、宗教システムに大衆化、有機的な組織形態、宗教選択の機会の増大の新しい特徴がもたらされたことが結論づけられている。このように宗教システムを人に関わる要素(主体)、組織・機構に関わる要素(回路)、教えや儀礼などに関わる要素(情報)の三つの側面からとらえようとする試みは著者の前著『教派神道の形成』 (弘文堂、一九九一)から引き継がれたものである。
 この他、本書では伝統教団との関係(第4章)や異文化進出(第9章)もテーマとなっている。また巻末には六九教団の沿革が紹介されており便利である。
   三
 本来であればここであげた四点について、先行研究と比較しながらその意義や疑問点などを指摘していきたいところだが、紙幅の関係上、本書の際立った特色を二点だけとりあげたい。
 第一にマスコミ報道を手掛かりとして人々の宗教観を問題にする手法が鮮やかである。新宗教を報道するマスコミが伝える典型的な淫祠邪教のイメージは「病気治しに名を借りて、インチキ臭い行為、特に淫らな行為をなし、しかも金儲けを企んでいる宗教」(第10章)となるという。そしてこれを裏返すと禁欲的で清潔な態度、金銭面での清貧性、合理的な儀礼となる。著者はこの反転像こそ、近代に日本にもたらされたプロテスタントのイメージや儒教倫理と通じていると喝破する。これを踏まえると入信に際しての子供の家出、創始者のお家騒動、巨額のお布施など、新宗教の反家族的、営利主義的ともとられやすい事態に対して、なぜマスコミがかくも執拗な攻撃を繰り返すのかがよくわかる。
 価値観が多様化したとはいいながら、人々が新しい宗教に接する時に示す嫌悪観や不安感には共通のものがある。特に伝統的宗教のイメージと比較してみれば、それは一層明白になるであろう。マスコミはこうした人々の思惑を吸い上げると同時に、逆に社会正義の立場から新宗教のイメージを固定化する機能を果たしてきた。本書は単にマスコミ報道の傾向を示すだけではあきたらず、こうした我々が無意識のうちに培ってきた宗教観がどこに由来するのかを鋭く分析している。
 第二にやはり宗教ブーム論または新新宗教論への批判は無視できないだろう。宗教ブーム、新新宗教という概念をもって一九七〇年代以降に発展した新宗教を特徴づけようとする試みがなされてきたことは周知の通りである。しかしマスコミ報道のわりには、実際の宗教運動はというと、その規模は大きいものばかりとは限らない(例えばイエスの方舟やオウム真理教)。また宗教ブームもしくは新新宗教という概念をもって、宗教運動のどのような側面にスポットをあてようというのかは十分に検討されてこなかった。著者はニュース性の過多という観点から、こうした一九七〇年代以降の宗教への関心の強まりは、実は情報レベルの問題であり、宗教情報ブームというのが相応しいという。
 宗教ブームにしろ新新宗教にしろ、これらの概念はマスコミ用語として定着した観がある。そのためか新新宗教の概念の提唱者の西山茂氏をめぐっていくつかの対談はあったものの、これまで突っ込んだ議論はあまりなかった。その意味で本書において実態に即した立場から異議申し立てがなされたことは注目すべきことであろう。
   四
 さて二点のみに絞って本書の特色を述べてみたが、この他にも本書には、はっとすべき問題提起が随所にみられる。しかしながらそれらの提起が十分に展開されていないきらいがあることも否めない。例えば著者は大型教団になっていく新宗教の特徴を「現実的な理想主義」(第八章)といっているが、特定の教義なり活動なりの具体例に照らし合わせて論じられているわけではない。そして地域的な発展や本部と支部との関係を指標として新宗教を分類できる(第一一章)というが、これも可能性が示されるに留まっている。また新宗教の既成化を教えのレベル(「教祖の祭り上げ」と「教えの脱コンテキスト化」)と組織のレベルで論じているが(第七章)、これも先の宗教システムの主体・回路・情報の三側面と対応させて詳しく知りたいところである。
 もちろんこれら全てを「ちくまライブラリー」というハンディな叢書一冊のなかで論じ尽くすことはできない。だが本書で十分展開できなかった問題提起は別の形でまとめる旨の確約もあとがきに記されている。いずれにしてもこれらの論点が、これからの新宗教研究で大きな課題となることは間違いないであろう。          

『新宗教』復刊終了する

 大正期の月刊誌『新宗教』(全十七巻)の復刊が、この度、第二期の刊行をもって終了した。本誌は戦前最大の新宗教となった天理教の周辺にあって、天理教改革を叫んだ孤高の知識人・大平良平が大正四年四月から大正五年八月まで発行していた個人雑誌である。
 本誌は天理教教会本部からすると異端的文書とされるらしい。本部機関誌には「昨年来大平良平なる者、猥りに本教に関する書籍を発行し、独断なる言説をなしつゝあるが、右は本部に於て認めざるは無論、一般教会に於ても、斯かる言論に惑溺し、深大なる教祖立教の神意を没却し、信念の動揺、信仰の蹉跌なき様、堅く戒慎せられん事を警告す」などの声明がたびたび出された。しかも大平が分派的潮流に荷担し、またその後すぐ三十歳の若さで死去したこともあって、彼の名も本誌の存在も時とともに忘却の彼方に追いやられていった。雑誌は散逸し、天理図書館でさえ本誌を閲覧することが不可能となっている。しかしながら本誌復刊の意義は、単にこうした史料的希少性だけにとどまるものではない。
 復刊第二期に収録されている大正五年五月号から、大平は当時「二代教祖」「播州の親様」と呼ばれた女性を、天理教教祖中山みきの後継者として認める論説を発表する。この年はみきが死去してからの三十年たった大祭にあたり、天理教内では「天啓が再来する」とか「教祖が生まれかわる」といった伝承がみられた。こうした天啓者を待ち望む雰囲気の中で本誌は創刊されるが、その宗教的情熱は教会本部はもちろん彼の賛同者でさえ到底容認できない「生き神様」への信仰へと帰着する。本誌は一人の求道者が帰依に至るまでの信仰の孤独な軌跡とその論理をあますことろなく伝える貴重な史料でもある。
 また大正期には似たような天啓者待望がいくつかみられた。大正七年から十年にかけては、内村鑑三によるキリスト再臨運動や大本の「ミロクの世」「世の立替え立直し」の運動があった。また日本で大正元年以来活動を続けていたエホバの証人では、終末の到来とキリストの統治が大正三年に設定されていた。これらの影響関係は宗教史研究の今後の課題であり、その意味でも本書の史料的価値は大きい。
 本誌の復刊は、このように学術的に意義のあることは明らかであるが、天理教という教団にとっても意味あることと思う。大平は自らのたどった道こそが正統であると確信していたが、天理教の基本教理に照らしてみれば、大平の言説には錯誤や独善性が認められるのも事実である。今年、教祖誕生二百年祭を迎え、彼女のメッセージの現代的意義が教団内外で見直されようとしている。本誌が復刊されたことにより、大正期の宗教的情熱に触れ、また冷静に分析する機会を得たことは、天理教にとっても重要なことではなかろうか。本誌が多くの人の目に触れ、議論されることを望む。

ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』渡辺学訳、岩波書店、2000年

 オウムと聞くと、もはや多くの人は食傷気味の感があるかもしれない。しかし数十年後にまだ読むに値する優れたルポ、ましてや本格的な研究書となると実はそう多くない。
 本書は日本でも名前の知られたアメリカ人精神医学者リフトンが、三年にわたってたびたび来日し、元信者を中心にインタビューを繰り返して書き上げた、渾身のオウム論である。同時にオウム問題から見たアメリカのカルト状況にも大きく紙幅が割かれており、グローバルな視点が提起されている。
 著者の関心は、本書の原題「世界救済のための破壊」の通り、この教団の黙示録的暴力―人類の浄化や刷新のために世界を破壊する暴力―にある。この点から本書では、俗物丸出しの指導者に対する特異なグル信仰や、医療に携わる者の殺人者への転化、宗教と科学や大量破壊兵器との奇妙な同居など、オウムが示したパラドキシカルな構造が解明されていく。しかもそこにはかつて中国共産党の洗脳の研究で昨今のマインドコントロール論の端緒を切り拓き、またナチスの医師を題材に医療による大量殺人のメカニズムにメスを入れた著者ならではの論考が光る。
 また、広島の被爆者の聞き取りなど、著者が一貫して取り組んできたインタビューによる歴史的問題に対する心理学的アプローチがここでもいかされている。元信者の内面に踏み込むと、オウムの錯誤や非合理とは、そもそも人間の内面の奥深いところに横たわっているものに他ならないと考えさせられる。
 冒頭に述べたように優れたオウム研究は少ない。これは明らか日本の研究者の怠慢と意識の低さを示している。宗教研究者の末端にいる評者は本書を前にこの点を恥じ入るとともに、七十歳を越えた著者のこの本がオウム研究の古典となるべき数少ない研究の一つになるものと確信している。

島薗進著『現代救済宗教論』青弓社、1992年

1、はじめに
 本書は一般にあまりなじみのない救済宗教という用語や新宗教の概念規定に始まり、伝統的仏教との相違、社会変動との関わり、地球規模の宗教現象のなかでの位置づけなどの多彩な内容が、著者(島薗氏、以下同じ)独自の視角によって極めて濃縮した形でまとめられている。
 本書は序章を含めて10章構成になっており、序章では本書全体の鳥瞰図が描かれており、問題の所在が明白にされている。これ以降の章は大きく4部にわけれている。第1部は新宗教の概念、発生基盤、類型について。第2部は大乗仏教と新宗教との関係が、そして第3部では日本の近代化と民衆宗教との関係が扱われている。そして最後の第4部では日系新宗教の海外進出と日米の宗教状況の比較が行われている。いずれも極めて意欲的な主題であることはいうまでもない。
 こうした本書の主題を、評者(弓山、以下同じ)は網羅的に論ずることはできないし、またこれまで井上順孝氏(『文化会議』276、1992)や沼田健哉氏(『桃山学院大学社会学論集』26-1、1992)や西山茂氏(『宗教研究』293、1992)による本書の書評が発表され、これらで細部にわたるほぼ全ての問題点が語りつくされているようにも思える。従って本評ではあまり各論には触れず、本書全体を通しての特色や著者の問題意識などをとりあげていきたい。

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瀬口晴義『検証・オウム真理教事件―オウムと決別した元信者たちの告白』社会批評社、1998年

 この本は、オウム裁判を傍聴し、また関係者への濃密な取材を続けてきた新聞記者による元信者の内面の告白の書である。
 といっても本書は単なるオウム批判本でもなければ、ましてや客観性を装ったシンパ本でもない。個人の妄想が大きな錯誤となり、やがて取り返しのつかない犯罪を犯したオウムに、なぜ若者は魅せられていったのか。この当事者の魂の遍歴に少しでも近づくことに著者の関心は向けられている。
 例えば、弱者切り捨ての風潮に対する憤りを、オウム流の社会憎悪や破壊願望に重ね合わせてしまった少年。両親との葛藤から自らの存在価値を見失い、オウムに自分の居場所を見出していった少女。彼らの目には少なくとも一時はオウムが正義に、そして救い場に映ったはずである。こうした事例は、この問題が単にオウム=悪という図式だけでは理解できないことを教えてくれる。元信者が絞り出すように語る脱会に対する迷いの言葉や時折みせる激昂が、さらに事態の複雑さを物語っている。
 オウム事件を風化させることも、オウムを特殊なものとして片づけてしまうことも、かえってオウムに「虐げられたもの」としての正当性を与えるだけであろう。社会に対する敵意や「居場所のなさ」が何もオウムだけの問題でないことは、最近の少年犯罪にまつわる、さまざまな証言をみれば明らかである。重要なことは本書のような地道で正確な記録が蓄積され、多くの人がそれに関心の目を向けることに違いない。

新堂冬樹『カリスマ』上下巻、徳間書店、2001年

 「事実は小説よりも奇なり」「小説もどきの」という常套句で語られることがあったオウム真理教は、これまで何度か小説の題材となっている。大江健三郎『宙返り』(上下巻、講談社)、佐木隆三『成就者たち』(講談社)、新堂冬樹『カリスマ』(上下巻、徳間書店)、そして現在『週刊新潮』に連載中の馳星周『無(ナーダ)』などがそうである。『宙返り』が教祖の転向と死を乗り越えていく弟子たちの魂の行方を壮大な物語に託し、『成就者たち』『無』が事件に関わった弟子たちの内面に着目しているのに対して、『カリスマ』は魂や内面とは無関係な、人間の徹底的に俗なる部分にスポットを当てている点で他の作品と趣きを異にしている。
 オウムを下地にしているといっても、霊感霊視商法など、いわゆる他の「カルト」の手口も本書にはふんだんに登場してくる。その出だしの猟奇的光景は一九八七年に神奈川県下で、ロックミュージシャンがその妻らに殺害され、内蔵を浄められていた「悪魔祓い殺人事件」を彷彿とさせる。物語では、ある教団の教祖と彼に見込まれた女性とその家族をめぐって、教祖の生い立ち、彼を取り巻く出家者たち、そして教団を倒そうとする反カルト陣営が交錯。女房をカルトに取られまいと奮闘する夫や、ニセ教祖に付き従ってなぜかそれなりの境地に達してしまったり、逆に自慰に耽って修行が進まなかったりする弟子たちがからまわりする。
 帯に多くの賞賛の辞が献上されているものの、相反する意見も聞こえてくる。例えば信者・元信者を交え、不謹慎の顰みを省みずにオウムねたを云々する「オウマー」と呼ばれる人たちがいる。卓抜した情報収集力はあなどれないが、彼らの決して上品とはいえないネット掲示板ですら、本書は「表現が下品」「下劣」「人物描写や性格描写がいやに図式的」「平板」と酷評されている。
 だが、私はこう評された部分こそが、この作品の真骨頂であるという印象を持っている。宗教研究者や一部のジャーナリストはオウムの宗教性といった、オウムを現代宗教・現代社会の負の側面の象徴あるいは反映として描き出そうしてきた。しかし本書を読み進めていくうちに、「ひょっとしてそれは買い被りすぎではなかったのか」という反省が頭をよぎる。宗教学者の肩書きでカルト被害の関係者に会うと必ずといっていいほど質問されること―「オウムを宗教だと思っているんですか」。宗教学には宗教の真偽や善悪を問わないという原則があるが、もしかすると私たちはその原則から見直しを始めなければならないかもしれない。
 ところで教祖の女性関係だけに関心を寄せたものに松田美智子『オウムの女』(早稲田出版)が、またそのいかがわしさのみを描いたものとしては田村智・小松賢寿『麻原おっさん地獄』(朝日新聞社) などがある。かかる俗物性を暴いたルポとも本書が異なる点は、九三五頁を一気に読ませてしまう麻薬のような魅力と恥ずかしくなるような安っぽさの同居であり、それは本書流に言えば自慰行為の快楽とその後に押し寄せてくる虚しさに似ている。実はカルトにも同じような快楽と虚しさがあり、「宗教的嗜癖性」と呼ぶ研究者もいるが、満たされないものをカルトで満たそうとして家庭を破壊する本書のマドンナたちは、まさにそれを体現している。
 このおぞましさへの直視がカルトにアプローチするには必要である。「下劣」と評される本書の表現形式は、カルトのある種の側面を描きだすのに多分に寄与している。そしてこの下劣さは私たちの内にも潜んでおり、本書をゲラゲラ笑いながら読み、それこそ凄惨なカルト事件をワイドショーで楽しんでしまう己のおぞましさとも通じる。カルトを買い被る必要はない。しかし、自分の醜悪さを直視せずにカルトを批判することもできないのだ。

藤原成一『癒しの日本文化誌』法藏館、1997年

藤原成一『癒しの日本文化誌』法藏館、三四〇〇円
 心身を癒すセラピーやワークショップが流行っていることに対して、皮肉屋の友人が「ガーデンニングや園芸療法っていっても、しょせんは野良仕事でしょ」といったことがる。そういえば箱庭療法や自然と戯れるネイチャーゲームのある要素は盆栽作りに似てなくもないし、プレイセラピーで、ある役をこなすことで自己実現を目指す機能は民俗芸能にもあるだろう。何もことさら「癒し」「ヒーリング」などといわなくても、そうしたものは何気ない日常の中にすでに備わっているのかもしれない。
 本書は、こうした昨今話題となっている癒しの技法や発想を、主に日本の伝統文化の中に見出していこうとするものである。花見や湯治が憂さ「晴らし」という癒しになることくらいは、私たちもすでに知っているが、本書を読むと、かつては生活の中に癒される場と時がたくさんちりばめられていたことがわかる。
 もっとも、それでは昔は抑圧がなくて人々が幸せだったのかとか、そんなに日本文化を賛美していいの、という批判も聞こえてきそうだ。しかしいかに多くの癒しの知恵が伝統によって受け継がれてきたかを、そして同時に今の私たちがこうした知恵とかけ離れているのかを再認識するには、本書は絶好の良書である。また長らく編集者として、さまざまな企画や雑誌つくりに携わってきた著者の幅広い関心と知識も、本書の魅力の一つである。
 周知の通り、教育の現場では、知識偏重の批判から、それこそ畑仕事や早朝清掃や運針など用いた、トータルな人間つくりが提唱されている。私の経験からいっても、音楽や演劇や武道をやっている人たちは、改めて心理療法などを受けなくても、自分をうまく表現し、他者を受け入れる構えができていることが少なくない。こうした、いわば全人教育を考え、実践するうえでも本書を多くのヒントを与えてくれるだろう。

上田紀行『癒しの時代をひらく』法蔵館、1997年

 「癒し」や「ヒーリング」が話題となって久しいが、この「癒し」研究の第一人者であり、またそのブームの渦中の人でもある著者の新刊が出版された。
 本書は多重人格からはじまり、自己啓発セミナー、自己変容のワークブックなど、著者の関わった「癒し」をめぐる現場からの報告を中心に、予期せぬ形で拡がった「癒し」のブームの持つ危険性と、しかしながらそれでも「癒し」の放つ魅力と可能性が論じられている。所収の論考の多くは一九九五年三月の地下鉄サリン事件以前のものだが、「癒し」を求めてオウムに入信した人々が陥った落とし穴を考える時、改めて本書の提起する「癒し」の二面性の解明は急務のものと思われる。それゆえ本書は宮台真司『終わりなき日常を生きろ』や森岡正博『宗教なき時代を生きるために』など、オウムによって突きつけられた諸問題と格闘する一連の著作群の中に位置づけることができる。
 著者によれば「癒し」とは単に「傷ついた自己」の回復に留まらず、そこから他者へのまなざしが生まれ、やがて社会大への「癒し」へと連なる拡がりを持つものだという。だが、これがひたすら自己へと向かう内閉化した営みで終わってしまったり、さらには商業主義に乗った「癒し」のブームや、いわゆる「洗脳」のようにシステマティックに画一化された「癒された人」を生産しようとするばあい、「癒し」は抑圧に転化する。この「癒し」の二面性が、同じように自己をみつめ愛を歌いながら、ある意味で自己をみつめる重圧に耐え切れなかった尾崎豊と、自己を越えてはるか彼方の「水平的な他界観」を獲得した上々颱風の違いともなってあらわれてくという最終章は大変読み応えがある。
 やや楽屋落ちのネタがないわけではないが、かつて「遅れてきた社会派少年」を自認した著者が、ここ十年間で考え、行ってきた営為の軌跡と到達点を知るうえでも、本書は貴重である。

映画キッズ(4)

ゼミ(テーマ研究)生から「オススメ映画」ときた。映画キッズの不定期連載を急きょ変更して語ろうじゃないか。
よく「無人島にビデオを一本だ持っていけるとすると」とか、「この世の終わりに一本だけ映画が見られるとすると」という飲み会ネタがあるが、はばからず言おう、、、

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映画キッズ(3)

僕の映画キッズとしての歩みで「真夜中のカーボーイ」は、かなり重要だ。
今でもはっきりと覚えている。土曜日、技術の授業が終わって家に戻り、誰もいないんで一人で飯を食い、いつものように2:30からの「土曜何とか劇場」を観る。新聞で「真夜中のカーボーイ」であることは知っていたので、「きっとウエスタンだろう」と楽しみにテレビの前に座る。映しだされた映像は、何とももの悲しく、そしてハーモニカのテーマ曲が一層それに拍車をかける。
そう僕が観たのはアカデミー作品賞に輝くアメリカン・ニューシネマの代表作だった。中学一年生にとっては、内容はかなり「いやらしい」(男娼とそのマネージャーとの話)のだが、それ以上に僕は、完全に、この映画に打ちのめされた。ラストのジョン・ボイドがダスティン・ホフマンを抱きかかえながら、フロリダ行きのバスに揺られるシーンなどは、今、こうしてパソコンのキーを打ちながらも涙がこぼれそうだ。
この映画をもって、だいたい3つ位のジャンルを集中的に観るようになった。一つはニューシネマ、ヌーベルバークと呼ばれる60年代末から70年代初頭一群の作品。二番目はそこから派生して、ATGをはじめとする日本の中小プロ、独立プロの作品。三つ目は「やっぱアカデミー賞とか、カンヌ映画祭とか、押さえなきゃ」と、とにかく古典と称せられる作品群をできるだけ多く観るようになった。
それぞれ、僕の人格形成に色濃く影を落としている。
中学一年生から二年生にかけて影響を受けたのは、アメリカン・ニューシネマやフランスのヌーベルバークだった。特に「イージーライダー」は決定的だった。中学二年生の夏に三越本店の中にある小さな劇場で観て、その後、神田の王様カレーを食べながら、あまりのショックに口がきけないくらいだった。左の写真をダウンロードしてきたが、うーん、この一枚を見るだけでも「カルト!」と叫びたくなる。
「ハーダー・ゼイ・カム」でジミー・クリフが繰り返し言っていたが、ニューシネマもヌーベルバークも主人公は最後に死ぬことが多い。中学生の僕は、そこんところに参ってしまったようだ。上の映画もそうだが、「勝手にしやがれ」「死刑台のエレベーター」「明日に向かって撃て」、みーんな無様に死んじゃうんだよね。それが僕にしてみると、恐ろしく格好よかった。ウエスタンのアウトローから、破滅型のヒーローに関心が移っていった。だが、同じヌーベルバークでも日本のそれを通じて違うヒーロー像を見出すことになるのだが、、、、【続きを心して待て!】