Archive for 2005年4月29日

おたまじゃくし

 B級グルメでは報告しているが、3月後半から約1ヶ月、実に辛く楽しく、いろいろなことがあった。ほぼ毎日、新しい出会いがあり、ほぼ毎日、酒を飲み、ほぼ毎日、声がかれていた。
 IAHR(国際宗教学宗教史学会)、韓国釜山の東西大学校からの留学生の受け入れ、新しいコース、部署、NPOの立ち上げ、新入生のガイダンス、新しい受講生との出会いなどなどである。
 国際会議では汗もペーパーもかいたが、恥もかいた。今となってはいい思い出でだ。7月のクロアチアに全力を尽くそう。留学生には、ぜひいい思い出と日本人友人のメールアドレスと語学力をできるだけたくさん持ち帰ってもらいたい。新しいコース、部署、NPOも頑張るしかない。新入生、新しい受講者とは、いい感じだ。
 ここ何年か変貌する学生気質についていけないのか、僕が歳をとったのか、その両方なのか、実は今イチ手応えが感じられなかった。ところが、この間、何度か学生を見直す場面があった。いくつかの講義では、学生が自ら飲み会を企画し、楽しく杯を傾け、場合によっては怒鳴り合い、肩を抱き合い、「わかった」とか「わからない」とかやり合った。ゼミ(テーマ研究)では、36名の受講者全員が自らのブログを作成し、ブロガーへと成長しつつある。1年生のゼミも連休中に30名中23名が結集してイベントがある。学生が自分たちの意志で動き始めている。とても良いことだ。
 本当に久しぶりに何も予定のない日だった。昼にイタ飯屋でスパークリングを3杯ほど飲み、娘と近所の公園に行った。オタマジャクシがうじゃうじゃといるのを発見。家に帰り、透明な花瓶に、10匹ほどをすくいいれた。小さな命が傍らにいると、何だか楽しい気分になる。足がでてきたら、池にかえしてやろう。
 3月末からぶっ通して働き、飲んでいたので、新年度になった感がしないが、今日から心を入れ替えて頑張ろう。

2005年4月

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これが志な乃の合わせ盛りだ!(4月24日の日記参照)

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「スピリチュアリティを生きる」第二弾撮影順調

2005年6月にスカパー!216ch (楽天TV ベターライフチャンネル)で「スピリチュアリティを生きる」シリーズ第二弾が放映されます。撮影は順調に進んでいます。
23日〜26日の東京・横浜ロケのうち、23日〜25日を立ち会いました。今回はドラマ仕立てで、はじめてドラマの撮影を見ました。10秒のカットを撮るのに、何十分とかかるものなのですね。前回、カシオ・弓山が出すぎという批判をいただいたので、今回は2カットに、ちょこっと顔を出す程度です。
20050430-P1010176.JPG 就職面接に向かう主人公女性
20050430-P1010179.JPG 港をあるく主人公男性
20050430-P1010183.JPG 画家の卵と出会い、ある気づきを得る

井上順孝『教派神道の形成』弘文堂、1991年

1、本書の構成
 本書は8章から成り、大きく総論・各論・結論の3つに分かれている。総論では教派神道体制の成立過程とその研究史、そして本書の前提となる概念規定と問題の所在が述べられている。各論では、佐野経彦と神理教、新田邦光と神道修成派、芳村正秉と神習教、平山省斎と神道大成教が扱われ、ここでは各創始者の思想形成、教団の性格、キリスト教に対する態度などが詳細に記されている。結論では教派神道の特性や近代宗教史における位置づけが論じられている。
 以下、本書の特色について、?教派神道という概念、そして?グローバル化とネオ・シンクレチズムの2点に関して、それぞれの概略・意義・疑問を述べていきたい。

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石崎正雄編『教祖とその周辺―天理教史の周辺を読む―』天理教道友社、1991年

    一
 近年、新宗教に関する研究が多くなっていくなかで、天理教は特に研究が進んでいる教団の一つである。同時に天理教は天理大学や天理教校などの研究教育機関を擁し、教団内で極めて質の高い研究が進められていることでも知られている。そしてそれは時に教団外の天理教研究に対する厳しい姿勢としてあらわれることもある。小栗純子氏の『日本の近代社会と天理教』(評論社、一九六九)に対する安井幹夫氏の批判(1)や、村上重良氏の『近代民衆宗教史の研究』(増訂版、法蔵館、一九六三)、元天理教教会本部修養科講師の矢島英雄氏の『中山みき研究ノート』(立風書房、一九八七)に対する天理教青年会機関誌上の批判(2)などは、そのほんの一例である。
 一般に教団外の研究者に対する教団側の批判は、実証研究に対する神学的批判という平行線をたどることが少なくない。しかし天理教のばあい、実証研究に対しては、その史料の扱い方や検証の仕方などの問題点を指摘していくという歴史学を背景とした実証的な立場からの批判が中心である。
 もちろん客観的に実証できないものが全て排斥される必要はない。なぜならば、そもそも天保九年に天理教教祖中山みきが、彼女を通して神が顕現する立場(天理教用語で「月日のやしろ」という)となり、今もなお在世中と同様の救済を続けているという神学的内容自体、たとえ実証できずとも(あるいは実証できたとしても)、人々の信仰によって十分基礎づけられている、いわば信仰的事実であるからである。天理教の教学はこの神学的アプローチと実証的アプローチがともに追求されている。そして両者が有機的な連関をなしていることは、なによりも天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』(天理教道友社、一九五六)など、一連の教団刊行物をみれば明らかであろう。
 さてこのような天理教の教学を背景に本書は執筆されている。むろん中山みきが「「月日のやしろ」となられた」(i頁)信仰的事実が大前提にあることはいうまでもない。しかし本書はこうした神学的アプローチよりも、実証的アプローチの方にウエイトがおかれている。また表題には「教祖とその周辺」とあるが、教祖よりもその周辺の方に重きがおかれている。すなわち本書は初期天理教というよりは、幕末維新期の中山家を取り巻く社会状況の記述といった色彩が濃い。それは当時の社会状況の知識を得ることで、中山みきの言行、なかでも彼女が社会や歴史に対してどのような認識をもっていたのかを正しく理解することができからである。これが本書のねらいであると考えられる。
 以下、本書に収められている論文を紹介していきたい。

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ホセ&ミリアム・アーグエイエス『マンダラ』中村正明訳、青土社、1997年

 チベット密教の儀式で使われ、その基本的世界観(コスモロジー)をあらわすマンダラ。極彩色の宇宙の中で神々が交歓するさま(もっともこれはマンダラの一種類にすぎない)に驚いたことのある人も多いだろう。西洋でも、心理学者のユングによって、また一九七〇年代のカウンターカルチャーにおける東洋志向によって、マンダラは注目を集めてきた。本書は美術史を専攻した著者によるものであるが、よくある異国趣味の単なるマンダラの紹介にとどまらず、マンダラの持つ意識変容の力に私たちをいざない、目を覚かせてくれる。
 さて、この意識変容の力とは、マンダラの有する独特な形象―いわば常に中心に向かうエネルギーの流れ―を観想したり、また実際にマンダラを作成することによってもたらされるという。そこで人は根源へと向かい、そこからあふれる無限のエネルギーに接して心と体が清まり、生命を更新することができる。つまり人はマンダラを生き、ここに劇的な癒し(ヒーリング)が生まれる。このあたりは、実際にマンダラを用いたワークショップを主催する筆者ならではの説得力がある。
 また本書は、こうしたマンダラ的装置はチベット文化にだけではなく、アメリカの先住民族の儀式や古代イギリスの巨石文化遺跡ストーンヘンジなど、広く諸文化に見られるということを教えてくれる。古今東西の聖句が繰り出される本書は、それだけでも読む者の魂を癒してくれる。さらに、本書を開くと、それこそマンダラを意識した美しい装丁と、筆者が作成したマンダラの挿画が目に飛び込んでくる。これも一見の価値がある。
 なお、訳者の中村正明氏は松江市生れで、最近ではサブカルチャーの教祖的存在であるコリン・ウィルソン関連の翻訳も多い。小生は松江にある財団法人祈月書院の会合で現代宗教に関して話したことで、お会いする機会を得、ヒーリングなどについて情報を交換した。今後も良書の紹介を念願する次第である。

ウワディスワフ・シュピルマン『ザ・ピアニスト―廃墟のワルシャワからの奇跡の生還』佐藤泰一訳、春秋社、2000年

 「アンネの日記」「夜と霧」「シンドラーのリスト」など、映画化されたホロコースト文学は多い。ユダヤ系ポーランド人ピアニストであるシュピルマンの手記もロマン・ポランスキー監督「ザ・ピアニスト」によって、その一つとなった。
 本書は、ゲットー(ユダヤ人居住区)での生活、ワルシャワの陥落、ガス室に送られていく家族、そして地獄からの脱出が回想形式で描かれている。路上にこぼれたスープをはいずり回ってすする老人や脳しょうを壁にぶちまける少年といった、おぞましい光景が淡々と記され、それが一層リアリティを醸し出す。
 シュピルマンの回想には、ガス室への恐怖を少しでも和らげようと、まるで遠足に行くかのように意気揚々と孤児たちと運命をともにするコルチャック先生の話が二度でてくる。また、オスカー・シンドラーのようにユダヤ人の生存権を左右する雇用証明を発行するドイツ人も登場。シュピルマンが彼らと同じ国で、同じ時に生きていたことに改めて気づかされる。
 シュピルマンは、偶然襟首を捕まれて、家族が乗ったガス室送りの列車に間に合わずに生き残る。しかも飢餓で死ぬか、見つかって銃殺になるかという潜伏生活の末に出会ったドイツ人大尉に命を救われる。「チャップリンの独裁者」に出てくるエピソードのようだが、本書収録の大尉の日記が、それが事実であることを雄弁に物語っている。しかしチャップリンが扮するユダヤ人の床屋と違って、シュピルマンは、戦後、命の恩人と再開することができず、その大尉はスターリングラードの戦犯捕虜収容所で絶望の淵に死ぬ。極限状態で生き残る人と命を落とす人とを分かつものは何か。運命・偶然・芸術を考えさせられる厳粛な記録である。

服部弘一郎+編集部編『シネマの宗教美学』フィルムアート社、2003年

 「十戒」など聖書系をはじめ、宗教を題材にした映画は多い。本書は欧米映画に通底する宗教的なモチーフを探り、そこに描かれる人間の生に対する“こだわり=美学”を描き出す。
映画も宗教も、本来存在しないものを、あたかも眼前にあるかのように映し出すという点で根っこは同じだ。生と死、善と悪、奇跡といった宗教的題材を全く欠いた映画の方が珍しい。しかし「タクシードライバー」のデ・ニーロを神が不在の世界における“復讐の天使”とみなし、「エイリアン3」のシガニー・ウィーバーを「裁かるるジャンヌ」(二人とも剃髪)に、さらには娼婦マグダナのマリアと重ねあわせるといったら驚きはしまいか。
 ただ、ポップカルチャーを大仰かつ軽妙にこじつける、よくあるサブカル論とは異なり、本書には神学的知識を繰り出し、あるいは“9.11”以降の動向をも射程にいれた力強い論考が続く。ベルイマンとパゾリーニとスコセッシが神の死の神学を背景に一脈通じているというくだりには思わず膝を叩いた。コラムやキーワード集、そして索引も便利だ。
 もっともキリスト教のようなドミナントな宗教がない日本では、シネマの宗教美学はどうなるのだろうか。本書日本篇を期待してやまない。

吉本隆明『共同幻想論』角川文庫、1982年

 「哲学する」ことを志して大学に入ったものの、哲学・思想談義にさっぱりついていけず、己の勉強不足に苦しんだ時期があった。ある時、心優しい先輩がそっとネタ本を教えてくれたのが、この一冊との出会いである。
 手にした本書の角川文庫版が出たのが八〇年代前半。「ニューアカ(デミズム)」とやらが華やかつ軽やかに言論・思想界を席巻していた反面、通っていたアナクロな大学では移転と学費値上げの阻止闘争で、在学中ずっとバリストとロックアウトが繰り返されていた。そんな喧噪が全共闘運動のバイブルである本書を、より親しみやすいものしてくれた。
 とはいうものの、戦後最大の思想家(今では吉本ばななパパといった方が通りがいいか)が著した渾身の国家論は、そうとっつきやすいものではなく、本書で検討された『古事記』と柳田国男『遠野物語』をまず読むことにしたのを覚えている。再度、本書を繙いたのは大学四年の時だった。本学で言えば室友会にあたる学生組織の執行部引き継ぎや運動の総括で、僕は悶々としてていた。遅ればせながら身をもって体験した、この「個と共同性」の位相を、宗教・法・国家まで射程に入れて論じた本書の内容は魅力的だった。思想を大衆の基底から捉えようとうする手法も、その後携わることになる民衆宗教・新宗教研究への橋渡しをしてくれたといえる。
 それから一〇年して、僕はオウム事件をめぐって『産経新聞』のインタビュアーとして吉本氏のお宅にお邪魔していた。インタビュー内容は氏の『超資本主義』『尊師麻原は我が弟子にあらず』などに転載され、吉本氏の発言は大きな議論を巻き起こし、僕もその渦の隅っこの方で巻き込まれることとなった。いろいろな人から批判を頂戴したり、激励されたりもした。その顛末は小浜逸郎『現代思想の困った人たち』を参照されたいが、そこで交わされた宗教や思想、そして「発言する」こと自体をめぐる議論は今でも僕の中で整理がついていない。
 僕のやや遅れた第二の誕生は『共同幻想論』から始まったといって過言ではない。未解決の課題をはらむ問題提起の書である。

斎藤貴男『カルト資本主義』文芸春秋社、1997年

 ソニーの超能力研究や科学技術庁内のオカルトの研究会といった奇妙な取り合わせについては、これまで伝聞以上の紹介は少なかった。本書では、気や超能力などの科学では十分に解明できない主題に取り組む企業や政府・行政の姿が克明に描きだされ、さらにはそこでの利害や思惑が批判的に分析されている。
 「カルト資本主義」という著者の造語は、アメリカで始まった意識変容や霊性の覚醒に重きを置くニューエイジ運動が、日本に紹介され、それが一種の経済倫理として定着していくなかで醸し出された新たな価値の体系を指す。所詮オカルトと一蹴されることも多いニューエイジと経済倫理との結びつきの卑近なイメージとしては、『脳内革命』や経営コンサルタントの「教祖」船井幸雄の本を読んだサラリーマンが、その「教義」であるポジティヴ思考や発想の転換で、きつい残業もこなすことができるといった姿を思い浮かべてもらえばいい。事実、ビジネス書のコーナーには宗教書と見紛うばかりの本が幅を利かせ、信奉者も多い。
 本書はニューエイジを過大評価したために自己撞着に陥ったり、これを利用したりすることの危険性を指摘するに留まらず、日本的経営との関わりに多くの紙幅が割かれている。西洋近代を比較的抵抗なく受容した日本の文化的背景は社会学や思想史の大きな課題であるが、その意味で本書は日本的経営の一九九〇年以降の展開を、ニューエイジの定着の過程から解明しようした学術的性格も兼ね備えている。
 著者のニューエイジに対する恐怖ともとれる過剰な態度は、ニューエージャーたちの思い込みと表裏をなすような気もするが、近代を乗り越えよう(ポストモダン)として、なぜか前近代(プレモダン)や素朴なナショナリズムと結びついてしまうことの多い日本のニューエイジの現状を考えるうえでも、本書で示された視点が重要であることは間違いない。