Archive for 2005年11月30日

ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』渡辺学訳、岩波書店、2000年

 オウムと聞くと、もはや多くの人は食傷気味の感があるかもしれない。しかし数十年後にまだ読むに値する優れたルポ、ましてや本格的な研究書となると実はそう多くない。
 本書は日本でも名前の知られたアメリカ人精神医学者リフトンが、三年にわたってたびたび来日し、元信者を中心にインタビューを繰り返して書き上げた、渾身のオウム論である。同時にオウム問題から見たアメリカのカルト状況にも大きく紙幅が割かれており、グローバルな視点が提起されている。
 著者の関心は、本書の原題「世界救済のための破壊」の通り、この教団の黙示録的暴力―人類の浄化や刷新のために世界を破壊する暴力―にある。この点から本書では、俗物丸出しの指導者に対する特異なグル信仰や、医療に携わる者の殺人者への転化、宗教と科学や大量破壊兵器との奇妙な同居など、オウムが示したパラドキシカルな構造が解明されていく。しかもそこにはかつて中国共産党の洗脳の研究で昨今のマインドコントロール論の端緒を切り拓き、またナチスの医師を題材に医療による大量殺人のメカニズムにメスを入れた著者ならではの論考が光る。
 また、広島の被爆者の聞き取りなど、著者が一貫して取り組んできたインタビューによる歴史的問題に対する心理学的アプローチがここでもいかされている。元信者の内面に踏み込むと、オウムの錯誤や非合理とは、そもそも人間の内面の奥深いところに横たわっているものに他ならないと考えさせられる。
 冒頭に述べたように優れたオウム研究は少ない。これは明らか日本の研究者の怠慢と意識の低さを示している。宗教研究者の末端にいる評者は本書を前にこの点を恥じ入るとともに、七十歳を越えた著者のこの本がオウム研究の古典となるべき数少ない研究の一つになるものと確信している。

島薗進著『現代救済宗教論』青弓社、1992年

1、はじめに
 本書は一般にあまりなじみのない救済宗教という用語や新宗教の概念規定に始まり、伝統的仏教との相違、社会変動との関わり、地球規模の宗教現象のなかでの位置づけなどの多彩な内容が、著者(島薗氏、以下同じ)独自の視角によって極めて濃縮した形でまとめられている。
 本書は序章を含めて10章構成になっており、序章では本書全体の鳥瞰図が描かれており、問題の所在が明白にされている。これ以降の章は大きく4部にわけれている。第1部は新宗教の概念、発生基盤、類型について。第2部は大乗仏教と新宗教との関係が、そして第3部では日本の近代化と民衆宗教との関係が扱われている。そして最後の第4部では日系新宗教の海外進出と日米の宗教状況の比較が行われている。いずれも極めて意欲的な主題であることはいうまでもない。
 こうした本書の主題を、評者(弓山、以下同じ)は網羅的に論ずることはできないし、またこれまで井上順孝氏(『文化会議』276、1992)や沼田健哉氏(『桃山学院大学社会学論集』26-1、1992)や西山茂氏(『宗教研究』293、1992)による本書の書評が発表され、これらで細部にわたるほぼ全ての問題点が語りつくされているようにも思える。従って本評ではあまり各論には触れず、本書全体を通しての特色や著者の問題意識などをとりあげていきたい。

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瀬口晴義『検証・オウム真理教事件―オウムと決別した元信者たちの告白』社会批評社、1998年

 この本は、オウム裁判を傍聴し、また関係者への濃密な取材を続けてきた新聞記者による元信者の内面の告白の書である。
 といっても本書は単なるオウム批判本でもなければ、ましてや客観性を装ったシンパ本でもない。個人の妄想が大きな錯誤となり、やがて取り返しのつかない犯罪を犯したオウムに、なぜ若者は魅せられていったのか。この当事者の魂の遍歴に少しでも近づくことに著者の関心は向けられている。
 例えば、弱者切り捨ての風潮に対する憤りを、オウム流の社会憎悪や破壊願望に重ね合わせてしまった少年。両親との葛藤から自らの存在価値を見失い、オウムに自分の居場所を見出していった少女。彼らの目には少なくとも一時はオウムが正義に、そして救い場に映ったはずである。こうした事例は、この問題が単にオウム=悪という図式だけでは理解できないことを教えてくれる。元信者が絞り出すように語る脱会に対する迷いの言葉や時折みせる激昂が、さらに事態の複雑さを物語っている。
 オウム事件を風化させることも、オウムを特殊なものとして片づけてしまうことも、かえってオウムに「虐げられたもの」としての正当性を与えるだけであろう。社会に対する敵意や「居場所のなさ」が何もオウムだけの問題でないことは、最近の少年犯罪にまつわる、さまざまな証言をみれば明らかである。重要なことは本書のような地道で正確な記録が蓄積され、多くの人がそれに関心の目を向けることに違いない。

新堂冬樹『カリスマ』上下巻、徳間書店、2001年

 「事実は小説よりも奇なり」「小説もどきの」という常套句で語られることがあったオウム真理教は、これまで何度か小説の題材となっている。大江健三郎『宙返り』(上下巻、講談社)、佐木隆三『成就者たち』(講談社)、新堂冬樹『カリスマ』(上下巻、徳間書店)、そして現在『週刊新潮』に連載中の馳星周『無(ナーダ)』などがそうである。『宙返り』が教祖の転向と死を乗り越えていく弟子たちの魂の行方を壮大な物語に託し、『成就者たち』『無』が事件に関わった弟子たちの内面に着目しているのに対して、『カリスマ』は魂や内面とは無関係な、人間の徹底的に俗なる部分にスポットを当てている点で他の作品と趣きを異にしている。
 オウムを下地にしているといっても、霊感霊視商法など、いわゆる他の「カルト」の手口も本書にはふんだんに登場してくる。その出だしの猟奇的光景は一九八七年に神奈川県下で、ロックミュージシャンがその妻らに殺害され、内蔵を浄められていた「悪魔祓い殺人事件」を彷彿とさせる。物語では、ある教団の教祖と彼に見込まれた女性とその家族をめぐって、教祖の生い立ち、彼を取り巻く出家者たち、そして教団を倒そうとする反カルト陣営が交錯。女房をカルトに取られまいと奮闘する夫や、ニセ教祖に付き従ってなぜかそれなりの境地に達してしまったり、逆に自慰に耽って修行が進まなかったりする弟子たちがからまわりする。
 帯に多くの賞賛の辞が献上されているものの、相反する意見も聞こえてくる。例えば信者・元信者を交え、不謹慎の顰みを省みずにオウムねたを云々する「オウマー」と呼ばれる人たちがいる。卓抜した情報収集力はあなどれないが、彼らの決して上品とはいえないネット掲示板ですら、本書は「表現が下品」「下劣」「人物描写や性格描写がいやに図式的」「平板」と酷評されている。
 だが、私はこう評された部分こそが、この作品の真骨頂であるという印象を持っている。宗教研究者や一部のジャーナリストはオウムの宗教性といった、オウムを現代宗教・現代社会の負の側面の象徴あるいは反映として描き出そうしてきた。しかし本書を読み進めていくうちに、「ひょっとしてそれは買い被りすぎではなかったのか」という反省が頭をよぎる。宗教学者の肩書きでカルト被害の関係者に会うと必ずといっていいほど質問されること―「オウムを宗教だと思っているんですか」。宗教学には宗教の真偽や善悪を問わないという原則があるが、もしかすると私たちはその原則から見直しを始めなければならないかもしれない。
 ところで教祖の女性関係だけに関心を寄せたものに松田美智子『オウムの女』(早稲田出版)が、またそのいかがわしさのみを描いたものとしては田村智・小松賢寿『麻原おっさん地獄』(朝日新聞社) などがある。かかる俗物性を暴いたルポとも本書が異なる点は、九三五頁を一気に読ませてしまう麻薬のような魅力と恥ずかしくなるような安っぽさの同居であり、それは本書流に言えば自慰行為の快楽とその後に押し寄せてくる虚しさに似ている。実はカルトにも同じような快楽と虚しさがあり、「宗教的嗜癖性」と呼ぶ研究者もいるが、満たされないものをカルトで満たそうとして家庭を破壊する本書のマドンナたちは、まさにそれを体現している。
 このおぞましさへの直視がカルトにアプローチするには必要である。「下劣」と評される本書の表現形式は、カルトのある種の側面を描きだすのに多分に寄与している。そしてこの下劣さは私たちの内にも潜んでおり、本書をゲラゲラ笑いながら読み、それこそ凄惨なカルト事件をワイドショーで楽しんでしまう己のおぞましさとも通じる。カルトを買い被る必要はない。しかし、自分の醜悪さを直視せずにカルトを批判することもできないのだ。

藤原成一『癒しの日本文化誌』法藏館、1997年

藤原成一『癒しの日本文化誌』法藏館、三四〇〇円
 心身を癒すセラピーやワークショップが流行っていることに対して、皮肉屋の友人が「ガーデンニングや園芸療法っていっても、しょせんは野良仕事でしょ」といったことがる。そういえば箱庭療法や自然と戯れるネイチャーゲームのある要素は盆栽作りに似てなくもないし、プレイセラピーで、ある役をこなすことで自己実現を目指す機能は民俗芸能にもあるだろう。何もことさら「癒し」「ヒーリング」などといわなくても、そうしたものは何気ない日常の中にすでに備わっているのかもしれない。
 本書は、こうした昨今話題となっている癒しの技法や発想を、主に日本の伝統文化の中に見出していこうとするものである。花見や湯治が憂さ「晴らし」という癒しになることくらいは、私たちもすでに知っているが、本書を読むと、かつては生活の中に癒される場と時がたくさんちりばめられていたことがわかる。
 もっとも、それでは昔は抑圧がなくて人々が幸せだったのかとか、そんなに日本文化を賛美していいの、という批判も聞こえてきそうだ。しかしいかに多くの癒しの知恵が伝統によって受け継がれてきたかを、そして同時に今の私たちがこうした知恵とかけ離れているのかを再認識するには、本書は絶好の良書である。また長らく編集者として、さまざまな企画や雑誌つくりに携わってきた著者の幅広い関心と知識も、本書の魅力の一つである。
 周知の通り、教育の現場では、知識偏重の批判から、それこそ畑仕事や早朝清掃や運針など用いた、トータルな人間つくりが提唱されている。私の経験からいっても、音楽や演劇や武道をやっている人たちは、改めて心理療法などを受けなくても、自分をうまく表現し、他者を受け入れる構えができていることが少なくない。こうした、いわば全人教育を考え、実践するうえでも本書を多くのヒントを与えてくれるだろう。

上田紀行『癒しの時代をひらく』法蔵館、1997年

 「癒し」や「ヒーリング」が話題となって久しいが、この「癒し」研究の第一人者であり、またそのブームの渦中の人でもある著者の新刊が出版された。
 本書は多重人格からはじまり、自己啓発セミナー、自己変容のワークブックなど、著者の関わった「癒し」をめぐる現場からの報告を中心に、予期せぬ形で拡がった「癒し」のブームの持つ危険性と、しかしながらそれでも「癒し」の放つ魅力と可能性が論じられている。所収の論考の多くは一九九五年三月の地下鉄サリン事件以前のものだが、「癒し」を求めてオウムに入信した人々が陥った落とし穴を考える時、改めて本書の提起する「癒し」の二面性の解明は急務のものと思われる。それゆえ本書は宮台真司『終わりなき日常を生きろ』や森岡正博『宗教なき時代を生きるために』など、オウムによって突きつけられた諸問題と格闘する一連の著作群の中に位置づけることができる。
 著者によれば「癒し」とは単に「傷ついた自己」の回復に留まらず、そこから他者へのまなざしが生まれ、やがて社会大への「癒し」へと連なる拡がりを持つものだという。だが、これがひたすら自己へと向かう内閉化した営みで終わってしまったり、さらには商業主義に乗った「癒し」のブームや、いわゆる「洗脳」のようにシステマティックに画一化された「癒された人」を生産しようとするばあい、「癒し」は抑圧に転化する。この「癒し」の二面性が、同じように自己をみつめ愛を歌いながら、ある意味で自己をみつめる重圧に耐え切れなかった尾崎豊と、自己を越えてはるか彼方の「水平的な他界観」を獲得した上々颱風の違いともなってあらわれてくという最終章は大変読み応えがある。
 やや楽屋落ちのネタがないわけではないが、かつて「遅れてきた社会派少年」を自認した著者が、ここ十年間で考え、行ってきた営為の軌跡と到達点を知るうえでも、本書は貴重である。

ゼミ合宿

テーマ研究の学生30数名と、参宮橋のオリンピック青少年センターで合宿した。例年は報告書完成の直前の1月に行っていたもの。今回は、口頭発表から報告書作成に至るところで実施した。
結果的に、大きな意義があった。
第一に、いつもは原稿の最終チェックだったけど、今回は原稿化に向かうプロセスだったため、研究方針の大幅変更がやりやすかった。第二に、議論→発表→課題発見→議論→発表→課題発見という流れが明確にメリハリ効いてできた。
あるグループは飲んだ後に徹夜で発表準備をしていた。僕が明け方に目を覚ましたら、廊下の向こうから「マズローが、、、」なんて声がする。昼間も含めると、12時間は議論したんだんじゃないか? いやー大学生らしい!
この間のメンバーの動向を見ていると、キャンパスで5時間も話し込んだり、国会図書館に行ったり、発表がうまく伝わらなくて悔し涙を見せたりと、大学生ならではのことをしていると思う。ある意味懐かしい。僕にも、そんな時期があった。
参加者の大半は1年生の春に、同じ場所で合宿をしている。あの頃と比べると各段の成長も、大学生らしい。教員が寝てしまったら、それを起こさず、学生だけで酒盛りをするのも、大学生らしい。
そんなことを感じた一泊二日だった。

[ネタばれ注意]ミリオンダラー・ベイビー

 DVDが出てので、さっそく見てみた。
 僕なんかは、イーストウッドというと、マカロニウエスタンや「ダーティ・ハリー」シリーズがパッとでてくるが、そのクリント・イーストウッド監督・製作・音楽・主演で、アカデミー主要4部門を制した映画。イーストウッドも偉くなったなぁ、、、音楽も担当か。
 さて、映画は、ボクシングジムを経営する老トレーナー・フランキーと三十路を過ぎたガッツだけの女ボクサー・マギーとの絆を描く。そこにフランキーがかつてカットマン(止血担当)としてついた試合で失明し、今はジムの雑用係の元ボクサーの通称スクラップがからむ。尊厳死を扱った作品だが、前半はマギーの成長がテンポ良く描かれている。
 後半、映画はマギーが世界タイトルの試合に向かうあたりから翳りを見せ始め、テレビで試合を見守るスクラップの不安が的中し、彼女は全身麻痺に陥る。殺してくれてベットの上で懇願するマギーにフランキーは困惑する。教会でダンは神父に語る。「彼女は死にたがっていて、俺は彼女を守りたい。でも生かすことは殺すことだ」。神父は言う「すべてを神にお任せするのだ」と。

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シネマ・バトンだと

カッシーからバトンなんとかというのがやってきた。
課題を出されてブログに書いて、次の人にバトンを渡すみたいだ。
出された、お題は次の6つ。
誰から回ってきたかをURLのリンクをはって、ついでにその人にトラバして、流れをはっきりさせようね。
1.初めて映画館でみた映画
2.最後に映画館でみた映画
3.心に残り続ける映画
4.愛する人とみたい映画
5.震えたホラー映画
6.バトンを渡す人
んじゃ、やってみよう!

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見識と個性

学生に「見識を示せ」と言ったら、違和感を表明された。
「人それぞれが違った考えをしていて、人によって物事を感じる形は違う」から、「見識」という名の「「正当性」を受け入れなければならないなんて」抵抗があるし、「感じる側の資質、そんなものが問われるのはちょっと窮屈」だと言う。
この学生は、ある程度わかっているから伝えたい(やがて時期が来れば受講者全員にも伝えたい。)。
個性って何だろう。個々人がバラバラに感じ、勝手に判断することが個性なのだろうか。個人主義が基本の市民社会が没個性の画一化の大衆社会に流れていったのは、結局は、個々人がバラバラであったから。そこに社会的な見識とか、コンセンサスなりを見出す努力を怠っている限り、人々はバラバラだ。そんなのは個性とは言わない。
個性とは隣の人とどう違うか、昨日の僕とどう違うかだ。そこには何らかの違いを認め合わない限り、比べることもできない。
件の学生は「他人を論破して潰したり、勝ったり、それは事務的に必要なだけで、できるものなら私はしたくない」、またブログに関して「どんなページにもそこに記事がある以上は「想い」がある。それを「見識」として無理に一つにまとめる必要があるか」とも疑問を呈している。
見識を示すことは、何も論破したり、勝敗を決めることではない。自分の個性を認めることは、他人の個性も認めることだ。僕はA君より怒りっぽいけど、Bさんよりは穏和だ。そういうマッピングの中から、それぞれの個性が位置づけられていくんじゃないか。マップに配置することは、一つにまとめることではない。前後左右に異なる個性を配置すること(そのために見識=基準が必要)こそ、個性の多様性を認めることに直結しているだ