Archive for 2005年12月20日

新宗教・新新宗教・民衆宗教

日本仏教研究会編『日本の仏教』第II期2[日本仏教の研究法 歴史と展望](法蔵館、2000年)のコラムに寄稿したものです。
一、新しい宗教運動の登場
周知の通り、十九世紀中葉以降、数次にわたって新しい宗教運動が登場してきた。幕末維新期に創唱され発展した黒住教・天理教・金光教(第一次)、二十世紀初頭に伸びた大本や太霊道(第二次)、昭和前期とりわけ第二次世界大戦後に急成長した創価学会・立正佼成会・生長の家・世界救世教(第三次)、一九七〇年代後半ば以降に台頭した阿含宗・GLA・世界真光文明教団(第四次)などが、そうした宗教運動としてあげられる。これらに関する研究動向は井上順孝他編『新宗教研究調査ハンドブック』(雄山閣、一九八一年)や同『新宗教事典』(弘文堂、一九九一年)に詳しいが、ここではこうした宗教運動に対するさまざまな呼称(新宗教、新興宗教、新新宗教、民衆宗教など)をめぐって、当該研究史の整理を試みてみたい。

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卒論提出

今日は卒業論文の提出締切日だ。今年度は今まででは最大の15名の面倒を見ている。
「卒論は4年間の総決算」みたいなフレーズが死語になって久しいが、何となく「やっつけ仕事」が多くなってきている。別に短時間で卒論を書き上げるのがいけないとはいわない。むしろ優秀な学生は短時間で書き上げることが可能だと思う。ただ、じっくり考えるという姿勢が希薄になりつつあるのは確かだ。目の前の現象に悪戦苦闘するという感じではない。さらっとまとめる感じ、、、、
愚痴を言ってもしょうがないので、僕の卒論の思い出でも書いてみよう。

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やさしさ

この時期、いずれの講義も学生の発表やレポート提出だ。学生も辛かろうが、教員も、ある意味、非常に辛い。
大正大学の、ある学生のグループ発表に接して、ふと思ったことがあった。学生さん、やさしい。メンバーの意見を極力削ることなく、レジュメに盛り込む。発表もみんなで分担だ。ただ、その結果、学生からは「何をいいたいんだが」という苦言が呈せられ、僕自身も厳しいコメントとなった。
同じ頃、別の大学の学生からメールが来た。同じ班に貢献が足りない学生がいて、その学生と自分が同じ成績はおかしいと僕に釘を刺す内容だった。発表は多分主要メンバ数名で作成し、登壇者も2名だ。貢献しなかった学生は肩身が狭い。
こうしたシビアなやりとりをする学生と、やさしい大正大学の学生と、どちらがいいとは一概には言えないが、僕は前者が望ましいと思っている。みんなの意見を盛り込むのではなく、「正しい意見」をレジュメには書くのだ。真にやる気のある者が世界を変えていく。それに社会に出れば否応なくシビアな世界に放り込まれるのだ。
ここでフトある先生の言葉を思い出した。先生曰く「大正大学の持ち味は、競争社会原理とは異なる何かを背景に持っていることだ。それは慈悲といってもいい」と。その先生は上記の「別の大学」の出身者でもあった。「社会に出れば否応なくシビアな世界に放り込まれる」なら、大学時代くらい「やさしさ」を大切にしたっていいじゃないか。もっと言えば、そうした世界観や人間観をもった学生を輩出していくことこそ、大正大学の持ち味なのかもしれない。
こうしたことを考えながら、学生の発表の講評をする。辛い時期だ。

大澤真幸「恋愛の不可能性について」春秋社、1998年

 社会学者は、どうも人とは違ったことを言って相手を驚かせ、喜ぶ性癖があるようだ。例えば資本主義形成期においてキリスト教がその隠れた推進力の一つになったとか、自殺率は当事者の思惑を越えて、その社会の凝集性に反比例するとか‥‥。
 本書でも美は破壊において完成するだの、友と敵はほとんど見分けがつかないだのといったフレーズが次々と登場して読者を驚かせる。そもそも題名からしてそうだ。なぜ、恋愛が不可能性なのか。
 評者なりの言葉で述べるとこういうことだ。我々は通常、恋愛とは二人が一つになることと思っている。しかし、「わたし」にとっての「彼女」は、家事がうまいから好きなのでもなければ、背が高いから好きなのでもない。大袈裟にいえば、「わたし」を中心とする宇宙の中で「あの」としか指示できない、「あの彼女」だから好きなのである。この時、「あの彼女」は宇宙の中で決して中心、つまり「わたし」になれない位置にいる他者性として立ちあらわれている。すなわち、恋愛とは絶対に合一できない「わたし」と「あの彼女」との差異というパラドックス―不可能性―を常に孕んでいるのである。
 もっとも本書の題名や紅い唇をあしらった装丁で、この本を恋愛論と思ってはいけない。基本的には言語哲学に基礎づけられたコミュニケーション論の書であるといえよう。しかし、決して平易とはいえない本書を読み終えたとき、読者は自らの人間関係と、それを取り巻く宇宙に、それまでとは違ったあり様を見出すことは請け合いである。

上田紀行『日本型システムの終焉』法蔵館、1998年

  「癒し」をキーワードに論陣を張ってきた著者の大胆な文明批評が出版された。
 本書は少年犯罪、学校、オウム事件、沖縄問題など、世間の耳目を集めた現象の根底に横たわるものを、いのちを覆い隠す閉域=日本型システムであるとする。しかもこのムラ的な閉鎖性は前近代性を背景とするよりも、むしろ合理性と効率性という近代性に立脚するのだと喝破。例えば一見無意味に見える校則で生徒を縛ることは、学校の古い体質に基づいているだけはなく、教室運営や受験競争という近代的な効率性の上に成り立っていると指摘されている。
 興味深いのはこうした一連の考察が、著者の地方国立大学赴任時代に味わった単調で退屈な日々や、逆に南アジアでの刺激的な出来事という個人的な体験から照射されている点である。自己言及的な語り口やこれまでの著作でもお馴染みのエピソードが、本書に独特の説得力を与え、なによりも魅力的な一書に仕上げている。日本型システムからの離脱として提起される〈孤立〉=〈個立〉と〈連帯〉との往還も、著者と母との関係がヒントになっているようだ。
 文化人類学出身の著者だが、その幅広い活動・関心からすると、もはや大学の専攻などという枠組みとは無関係なのかもしれない。しかし異郷の地で文化の多様性を理解し、それを相対化するのが文化人類学の仕事の一つであるとするならば、南アジアでの見聞や「いのちのつながり」への洞察から、日本を、そして自己をも相対化しようとする本書は、その意味で極めて文化人類学的であると私は思う。

大庭健・鐘ヶ江晴彦・長谷川真理子・山崎カオル・山崎勉編著『ゆらぎ』(シリーズ【性を問う】5)、専修大学出版社、1998年

 自然科学と社会科学、アカデミズムとジャーナリズムを交錯させながら、性の問題に関わる多彩な執筆者によって織りなされたシリーズ『性を問う』が、「原理論」「性差」「共同態」「表現」に続き、この第五巻をもって終結した。
 ゆらぎ―それは自明とされきた男と女、異性愛と同性愛、さらには正常と異常という区分の崩壊を意味する。性転換による性の越境、インド文化圏における男でもなく女でもない「第三の性」の存在とその宗教的役割、ゴリラにもみられるという同性愛の生物学的な解明。本書は性差が固定したものではなく、振幅に富み、可変的なものであることを示してくれる。これまでのセクシュアリティに関する議論の整理や各章に読書案内もあり、役にたつ一書である。
 性暴力とエイズに関するかなり実践的な論考二本が含まれていることも特筆すべき点である。被害や差別を受けた者が、その不当性を訴えようとすればするほど、深く傷つかなければならない構造。現場からの告発は直接的な加害者だけでなく、こうした構造を維持し、再生産する私ちの性意識にも向けられているといえよう。
 ここ数十年の性に関する研究と実践の成果は、当たり前とされてきた社会構造や判断の基準が絶対的でないこと、つまり「ゆらぎ」があることを突きつけてきたし、これからもそうあり続けるだろう。本書は魅力あるシリーズの最終巻にふさわしいタイトルと内容である。

井上順孝『新宗教の解読』筑摩書房、1991年

   一
 近年、新宗教に関する書籍は数多く出版されている。しかしそのほとんどが興味本位で書かれていたり、また単なる教団紹介で終わっていたりしているのが実情である。例えば現代の新宗教をめぐる現象を理解するのに何か一冊と尋ねられた場合、そう多くの研究書をあげることはできない。そしてこのことは新宗教という現在進行中の現象を的確にとらえることが、いかに困難かということを如実にあらわしているともいえよう。
 さて三年前に編者の一人として『新宗教事典』(弘文堂)を刊行した著者が、その蓄積と手腕をもって執筆した『正論』誌上の連載をまとめたものが本書である。表題通り、近現代の新宗教全体を扱い、読み解く内容となっている。以下、本書の構成と特色を述べていこう。
   二
 本書は一二章構成で、章ごとにテーマが設定されいるが、だいたい以下の四点が著者の本書執筆の主な視角のように思われる。
 ?まず情報化の進展とからめて、マスコミやジャーナリズムと新宗教との関係に強い関心が寄せられている。著者はマスコミの報道姿勢が社会的な新宗教観を決定するとともに、そこには人々の新宗教に対する漠然としたイメージが投影されているとする(第1章)。そして明治期の蓮門教と天理教に関する報道をおいながら、急速に拡大する教勢が人々の不安をかきたてながらも、新宗教が社会に根付き始めた様を描きだしている(第3章)。さらに現代のマスコミによる宗教批判を分析し、人々の宗教観や社会正義感をあぶりだしている(第10章)。
 ?同じように国家との関係や法的規制についても言及されている。新宗教は、近代日本に出現した一つの新しい宗教システムであるというのが本書の一貫した立場であり、こうした新たな勢力が活動を合法化するためには、布教・教化することが許される教導職の資格をとる必要に迫られたし、既存の宗教団体の傘下に入らざるをえなかった(第2章)。しかし急速に天皇の権威が高められ、愛国心が鼓舞されはじめる大正末からは、国家の依拠する原理をラディカルに推し進めようとする、またはこれと異なる原理を有する新宗教が軒並み取り締まられていった(第5章)。
 ?新宗教自体の変容に関してもかなりの分量がある。雨後の筍と称された敗戦後の新宗教のまさに簇生ともいうべき現象も、よく検討すれば、戦前からの運動を継承している教団が多く、いくつかの教団を除いてほとんどは一種の「マイナーチェンジ」だとする(第6章)。そして新宗教が既成化をたどるなか大型化し、その背景には教団のもつ万人布教者主義的な拡大再生産志向や時代の変化を先取りするような戦術があるという(第7、8章)。
 ?本書の後半部(第10〜12章)は新宗教の「新」の部分を問うているといってよい。ここでは宗教ブーム論や新新宗教論を、実態に即した概念ではないと批判し、さらに新宗教の類型化をいくつか提起している。そして最後では、知的レベルの向上、人間関係の変化、情報化の社会変動によって、宗教システムに大衆化、有機的な組織形態、宗教選択の機会の増大の新しい特徴がもたらされたことが結論づけられている。このように宗教システムを人に関わる要素(主体)、組織・機構に関わる要素(回路)、教えや儀礼などに関わる要素(情報)の三つの側面からとらえようとする試みは著者の前著『教派神道の形成』 (弘文堂、一九九一)から引き継がれたものである。
 この他、本書では伝統教団との関係(第4章)や異文化進出(第9章)もテーマとなっている。また巻末には六九教団の沿革が紹介されており便利である。
   三
 本来であればここであげた四点について、先行研究と比較しながらその意義や疑問点などを指摘していきたいところだが、紙幅の関係上、本書の際立った特色を二点だけとりあげたい。
 第一にマスコミ報道を手掛かりとして人々の宗教観を問題にする手法が鮮やかである。新宗教を報道するマスコミが伝える典型的な淫祠邪教のイメージは「病気治しに名を借りて、インチキ臭い行為、特に淫らな行為をなし、しかも金儲けを企んでいる宗教」(第10章)となるという。そしてこれを裏返すと禁欲的で清潔な態度、金銭面での清貧性、合理的な儀礼となる。著者はこの反転像こそ、近代に日本にもたらされたプロテスタントのイメージや儒教倫理と通じていると喝破する。これを踏まえると入信に際しての子供の家出、創始者のお家騒動、巨額のお布施など、新宗教の反家族的、営利主義的ともとられやすい事態に対して、なぜマスコミがかくも執拗な攻撃を繰り返すのかがよくわかる。
 価値観が多様化したとはいいながら、人々が新しい宗教に接する時に示す嫌悪観や不安感には共通のものがある。特に伝統的宗教のイメージと比較してみれば、それは一層明白になるであろう。マスコミはこうした人々の思惑を吸い上げると同時に、逆に社会正義の立場から新宗教のイメージを固定化する機能を果たしてきた。本書は単にマスコミ報道の傾向を示すだけではあきたらず、こうした我々が無意識のうちに培ってきた宗教観がどこに由来するのかを鋭く分析している。
 第二にやはり宗教ブーム論または新新宗教論への批判は無視できないだろう。宗教ブーム、新新宗教という概念をもって一九七〇年代以降に発展した新宗教を特徴づけようとする試みがなされてきたことは周知の通りである。しかしマスコミ報道のわりには、実際の宗教運動はというと、その規模は大きいものばかりとは限らない(例えばイエスの方舟やオウム真理教)。また宗教ブームもしくは新新宗教という概念をもって、宗教運動のどのような側面にスポットをあてようというのかは十分に検討されてこなかった。著者はニュース性の過多という観点から、こうした一九七〇年代以降の宗教への関心の強まりは、実は情報レベルの問題であり、宗教情報ブームというのが相応しいという。
 宗教ブームにしろ新新宗教にしろ、これらの概念はマスコミ用語として定着した観がある。そのためか新新宗教の概念の提唱者の西山茂氏をめぐっていくつかの対談はあったものの、これまで突っ込んだ議論はあまりなかった。その意味で本書において実態に即した立場から異議申し立てがなされたことは注目すべきことであろう。
   四
 さて二点のみに絞って本書の特色を述べてみたが、この他にも本書には、はっとすべき問題提起が随所にみられる。しかしながらそれらの提起が十分に展開されていないきらいがあることも否めない。例えば著者は大型教団になっていく新宗教の特徴を「現実的な理想主義」(第八章)といっているが、特定の教義なり活動なりの具体例に照らし合わせて論じられているわけではない。そして地域的な発展や本部と支部との関係を指標として新宗教を分類できる(第一一章)というが、これも可能性が示されるに留まっている。また新宗教の既成化を教えのレベル(「教祖の祭り上げ」と「教えの脱コンテキスト化」)と組織のレベルで論じているが(第七章)、これも先の宗教システムの主体・回路・情報の三側面と対応させて詳しく知りたいところである。
 もちろんこれら全てを「ちくまライブラリー」というハンディな叢書一冊のなかで論じ尽くすことはできない。だが本書で十分展開できなかった問題提起は別の形でまとめる旨の確約もあとがきに記されている。いずれにしてもこれらの論点が、これからの新宗教研究で大きな課題となることは間違いないであろう。          

『新宗教』復刊終了する

 大正期の月刊誌『新宗教』(全十七巻)の復刊が、この度、第二期の刊行をもって終了した。本誌は戦前最大の新宗教となった天理教の周辺にあって、天理教改革を叫んだ孤高の知識人・大平良平が大正四年四月から大正五年八月まで発行していた個人雑誌である。
 本誌は天理教教会本部からすると異端的文書とされるらしい。本部機関誌には「昨年来大平良平なる者、猥りに本教に関する書籍を発行し、独断なる言説をなしつゝあるが、右は本部に於て認めざるは無論、一般教会に於ても、斯かる言論に惑溺し、深大なる教祖立教の神意を没却し、信念の動揺、信仰の蹉跌なき様、堅く戒慎せられん事を警告す」などの声明がたびたび出された。しかも大平が分派的潮流に荷担し、またその後すぐ三十歳の若さで死去したこともあって、彼の名も本誌の存在も時とともに忘却の彼方に追いやられていった。雑誌は散逸し、天理図書館でさえ本誌を閲覧することが不可能となっている。しかしながら本誌復刊の意義は、単にこうした史料的希少性だけにとどまるものではない。
 復刊第二期に収録されている大正五年五月号から、大平は当時「二代教祖」「播州の親様」と呼ばれた女性を、天理教教祖中山みきの後継者として認める論説を発表する。この年はみきが死去してからの三十年たった大祭にあたり、天理教内では「天啓が再来する」とか「教祖が生まれかわる」といった伝承がみられた。こうした天啓者を待ち望む雰囲気の中で本誌は創刊されるが、その宗教的情熱は教会本部はもちろん彼の賛同者でさえ到底容認できない「生き神様」への信仰へと帰着する。本誌は一人の求道者が帰依に至るまでの信仰の孤独な軌跡とその論理をあますことろなく伝える貴重な史料でもある。
 また大正期には似たような天啓者待望がいくつかみられた。大正七年から十年にかけては、内村鑑三によるキリスト再臨運動や大本の「ミロクの世」「世の立替え立直し」の運動があった。また日本で大正元年以来活動を続けていたエホバの証人では、終末の到来とキリストの統治が大正三年に設定されていた。これらの影響関係は宗教史研究の今後の課題であり、その意味でも本書の史料的価値は大きい。
 本誌の復刊は、このように学術的に意義のあることは明らかであるが、天理教という教団にとっても意味あることと思う。大平は自らのたどった道こそが正統であると確信していたが、天理教の基本教理に照らしてみれば、大平の言説には錯誤や独善性が認められるのも事実である。今年、教祖誕生二百年祭を迎え、彼女のメッセージの現代的意義が教団内外で見直されようとしている。本誌が復刊されたことにより、大正期の宗教的情熱に触れ、また冷静に分析する機会を得たことは、天理教にとっても重要なことではなかろうか。本誌が多くの人の目に触れ、議論されることを望む。