Archive for 2006年12月29日

丸長(コバチ)

前日がラーメン納めにしては不調だったので、二日続けてラーメンは嫌だという娘をなだめすかして丸長に行く。コバチ・中(チャーシュー野菜つけそば小鉢で、麺をミドルサイズ)を注文。写真は娘のメンマつけ・芥子抜き。
やっぱ美味いわ。丸長も仕事納めなので、活気がある。出前やナベ(ナベを持って買いに来る常連)もひっきりなしだ。前日のオリオン食堂は、うまいんだが、僕が注文を間違えた。今日はいつものコバチなので安心して食べられる。
20061230-KC280013.JPG

オリオン食堂(うま辛・大盛り)

ラーメンの食い納めをすべく隣駅のオリオン食堂に向かう。ふとした気の迷いで「うま辛」を注文。麺は大盛り(400g)。
僕は辛いものが好きなのだが、ラーメンの辛めで納得したものがない。担々麺だって、自分で作った方が美味い。しかし、どうもメニューに極辛とキムチ味とかあると注文してしまう。ましてや昨日まで韓国にいたのでなおさらである。
で、結果は失敗。しかしオリオン食堂のつけ麺って、こんなに油がかかっていたっけ? 何だかトッピングの干しエビも口の中で違和感を醸し出して、食べづらい。これが今年のラーメン収めというのは、、、ちょっとぉ。
20061230-KC280012.JPG

クリスマスのプサンで教え子と会う

今後のアジア宗教研究の組織化に関する話し合いをするためにプサンに赴く。全く偶然なのだが、3月にバンコクで再会したH薗君がテグ(大邱)で働いていてクリスマスはプサンで過ごすというのでソミョンで会うことに。
4時にプサンに着き、宿に荷物を下ろし、待ち合わせ場所に、H薗君はバンコクで会ったときと比べ、髪がのびたせいか、やや違った雰囲気になっていた。飯でも食おうということで、近所のマダンチブという焼き肉屋に。
ここのロースは大変おいしい。ニンニクをごま油につけて火にかけ香りを出す、付け合わせもいける。仕事のメンバーも一緒で、5名で焼酎を5本ほど空けて全部で18000ウォン(約2万円)。H薗君も僕も連れがいるので、H薗君とは次は一関で会うことを約束し、僕らはデジクッパへ。参加しなかった会議の報告を受け、仕事の打ち合わせをクリスマスの晩に。
20061230-zono.JPG 20061230-madan.JPG

大正大学80周年創立記念国際学術シンポジウム

「いのちと宗教」の教育を考える
日時 2月10日(土)10:00−17:00
場所 1号館2階大会議室
   122教室において10ヵ国の宗教教科書の展示
SESSION1
「いのちの教育」とスピリチュアリティ
10:00    学長挨拶(大正大学学長 星野英紀)
10:10−11:20 プレゼンテーション
11:20−12:30 ディスカッション
              Carl Becker(京都大学)
              近藤 卓  (東海大学)
              岩田文昭  (大阪教育大学)
 司会・コメンテーター 弓山達也  (大正大学)
SESSION2
宗教教科書の国際比較
14:00    学長挨拶(大正大学学長 星野英紀)
14:10−14:20 「世界の宗教教科書翻訳プロジェクト」の概要説明
        アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、トルコ、
        インド、タイ、インドネシア、フィリピン、韓国
        の宗教教育の教科書を翻訳し電子書籍化
14:20−15:45 プレゼンテーション
            Robert Jackson(イギリス ウォリック大学)
            Kim Chongsuh (韓国 ソウル大学)
            Jurgen Lott   (ドイツ ブレーメン大学)
            Linda Penkower(アメリカ ピッツバーグ大学)
         司会 藤原聖子   (大正大学)
15:45-16:00       休憩
16:00-17:00       ディスカッション
    コメンテーター 井上順孝   (國學院大學)
17:30        レセプション
※SESSION1は日本語、SESSION2は英語(通訳有)で行います。
※当日ご来場の先着100名様にCD-ROM『世界の宗教教科書シリーズ』
 サンプル版を進呈いたします。
20061225-80sympo01.JPG

僕の卒論提出(4)口述試問

今日が面倒を見ている学生の提出締切り。一人を除いて(なんとか)無事に提出。今年も、いろいろとドラマがあった。このエッセーも今回でおしまい。
———
さて卒論には口述試問という儀式がある。試問というとなんだか大げさだが、まぁ、面接試験である。僕のばあいは学外の先生に指導をお願いしたので、みんなと日程が違っていて、大学に行くと、学生は誰もいなかった。
1986年1月後半。学費値上げ闘争に大学側は機動隊の配備とロックアウト(大学による大学封鎖)で応えた。学生は本校キャンパスから閉め出され、近隣の大学施設に撤退を余儀なくされ、にらみ合いが続いていた。試験は全て中止。全教科がレポート郵送となっていた。
この年は異例の大雪で、誰もいないキャンパスに雪が積もり、足跡が数筋しか付いていなかった。指定された教室にいくと、先生が一人で待っておられた。先生は開口一番「君の論文の4つの限界を述べる」と宣言され、90分びっちり講義をされた。質問はなかったように記憶している。中間報告と同じように、教団資料のみを用いた手法や近世史研究に対する認識のなさが指摘された。最後の「何か質問は」に僕は何も言えず、口述試問は終わりになった。
誰もいない夕暮れのキャンパスにさらに積もった雪に、真新しい足跡をつけながら、大学を出てた。うまくいかなかった卒論作成、学費値上げ闘争に関われないもどかしさ、自分の進路などを考えているうちに、何だが無性に歩きたくなり、そのまま飯田橋から神楽坂を進み、早稲田に出て、そこから都電で家に帰った。
僕の論文は、その後、大学の懸賞論文では入賞して「努力賞」をいただいた。大学主催の立派な祝賀会があって(生まれて初めて食べるものも多数あった)、何だか偉くなったような気分にしてくれた。学費値上げ闘争の対応をめぐって、2人の学部長(一人は岩波から翻訳もでている高名な学者)がつかみ合いの喧嘩をする余興つきだった。
卒論指導していただいた先生とは、その後、年賀状のやりとりもなくなってしまったが、15年ぶりくらいに大正大学で開かれた学会の懇親会で再会した。というものの覚えてくださっているのかどうか心配で、ご挨拶できずに遠巻きに先生を見ていた(当時、その学会の大御所だった)。懇親会の途中、知り合いから「君は○○先生の教え子なんだって」と聞かれた。先生が「弓山っているのが大正大にいるだろ、あれの卒論を指導したのは私だ」ということを話されているようだった。お世話になった先生は商学部なので、卒論指導とかなく、いわゆる「教え子」というものがいないとされていた。だから、知り合いは「教え子」という発言に興味を持って僕のところに確かめにきたのだ。慌てて先生にビールをもってご挨拶に行ったところ、先生は「君のその後の業績は知っているよ。頑張っているね」と激励してくださった。
ここで僕の卒論は終わった、、、と何だか妙な実感があった。当時に、分野こそ、先生とは大きく異なってしまったが、「先生」というものは、いつまでたっても「先生」という存在なのだと納得した瞬間でもあった。

冬の札幌

8日から10日まで札幌に滞在。北海道大学のシンポジウムだ。
飛行機のアナウンス「現地の転向は雪。気温は零度」に客からどよめきがおきる。本当に雪が降っていて、路面は凍結していた。
到着後、今回のシンポジウムのパネリストとサッポロビール園で会食。ラムをたくさん食べる。
20061224-KC280046.JPG
9日は「韓日宗教文化交流—研究の現状と課題—」というシンポジウム。6時間を超える長丁場で、かなり専門性が高いシンポジウムなのだが、50名超える聴衆。僕の役どころは、日韓の新宗教の相互布教に関する韓国人研究者の発題に対するコメント。日本の海外布教研究をざっと振り返り、発題の意義を確認し、的確に質問しなけばならない。やや緊張したがうまくいった。
院生や学生が多数参加していたが、皆熱心にメモをとっており、また昼食会場への案内など親切で、けっこう感動した。
10日はミカエルカレッジというひびきのにあるシュタイナー教育の共同体の出会いの集会へ行く。確かにいろいろな出会いと発見があった。昼過ぎに中央市場でカニを購入。ゆでてもらっている間に昼食。刺身のレベルが高かったのでビールと日本酒。
充実した2泊3日だった。

1週間に2回ホテルの食べ放題

3日と6日にホテルの食べ放題で食べ放題した、、、
3日はドームホテル。これは意外(と言っちゃいけないが)よかった。前にラウンジにあふれて食べ放題しているのをみて、「人気あるんだなぁ」と思っていたが、ここまでコストパフォーマンス(3300円)がいいとは!
カニやローストビーフや豚の丸焼きなど、たらふく食った。
しかし、いわゆる「後楽園」は変わったね。何か場外馬券売り場と後楽園遊園地のイメージしかなかったけど、今でもこんなにイルミネーションが綺麗。写真スポットにもなっていた。
20061224-KC280032.JPG
6日はメトロポリタン、、、え〜、、、ノロウィルスでケチがついたホテル。しかも食中毒かノロウィルスかっていうんで、バーラウンジなど閉店している最中に行って食べ放題。
バサバサの焼きカニ(案内には「浜ゆで」となっている)に、何とも貧弱なラインナップに憤りを覚える。あまりにも案内の写真と違いすぎるので、他のお客さんも「これだけですか」って呆れて聞いていたが、店員は「65種類です」と胸を張って応えていたが、、、
今から思うと、腹痛・閉店騒ぎで生ものが提供できなかったのかも。しかし、そんなんなら、食べ放題も安くするなり、いっそうのこと自粛・閉店するなりしろよ。4180円は高すぎ。

僕の卒論提出(3)提出

10月に草稿はできたものの、11月に祖父が入院・他界し、東京と愛媛の間を二往復した。母が看病で不在の間、家事も僕の仕事だった。卒論は思うように進まず、祖父の葬儀の帰りの飛行機の中で草稿を読み直しながら、暗澹たる気持ちになった。
幸い、草稿を学生論文集にも投稿したので、当時出たばかりのポータブルワープロで友人が入力をしてくれていた。この頃のワープロはフロッピーディスクがなく、音声テープにファックス音みたいなものを録音し、それを再生すると、わずか8文字のディスプレイに文字が浮かび上がってくるという魔術のような箱であった。それでもリライトは、ずいぶんと楽だった。
年末から正月は夜警のバイト。そこで何とか清書を始めた。そう、当時はワープロ提出は認められていなかったのである。手書きをワープロで清書するという話は聞いたこともあるが、ワープロで書いたものを手書きで清書しなければならない時代だった。400字を清書するのに、推敲したり、書き直したりすると1時間はかかった。一日10時間清書しても原稿用紙10枚しかいかない。僕の卒論は80枚程度だから8日あればできる。提出は確か1月10日。何月何日の何時と提出時間は数時間の幅しかなく、その時に提出できなければアウトだった。
、、、というときに、人はたいてい体調を崩す。僕のばあいは大腸カタルであった。いたんだカマボコを食べたせいである。ツメがひっくり返るんじゃないかと思うような激痛に苦しみ、卒論の清書どころはなくなり、医者で鎮痛剤を打ってもらった。
卒論提出の日は全学バリケードストライキだった。先輩が書いた8枚看(ベニヤ4枚で一文字、それを8文字連ねた「全学スト決行中!」という立て看板)が、正門入ったところの校舎に掲げられ、教職員は一切入校できない状態であった。卒論の提出場所が学外に変更になったとか、学生は入ることができるから提出は予定通りだとか、拡声器の大音響の中で、怒号が飛び交った。学内から拡声器でアジっているのは友人や後輩で、僕はというと門の外にいた。冷え切った鉄製の門を境に友人らと対峙し、えらく不思議な感覚に陥りながら、二転三転する情報を頼りに卒論を提出した。
草稿提出後のようにストライキを激励にしに行くことはためらわれ、そのままバイトに向かった。

僕の卒論提出(2)卒論指導

いわゆる卒論指導は、ほとんどなかった。「夏休み明けに草稿提出」というプレッシャーはあったが、案の定、夏休み明けに草稿はできあがらなかった。所属していた大学では懸賞論文制度や学科の学生論文集があって、その締切りが10月で、自分の中で、「夏休み明け」を勝手に「10月」と解釈し直していた。
どうにかこうにか懸賞論文の締切りに草稿ができあがり、まずは懸賞論文に提出。原稿用紙で60枚ほどで、自分としては、かなりいいせんいっていると思った。国会図書館で先行文献にあたり、金光教や天理教にも足を運び、教団資料をコピーさせていただいたりいした。だから自信をもって、そのままコピーし、先生の研究室に郵送した。
当時、大学では学費値上げ阻止闘争が闘われていた。ハンガーストライキの泊まり込みが学友数名で展開されていて、僕のクラスの学生2名がハンスト中だった。草稿を郵送後、ハンストの激励に行き、30時間ほど寝ていなかったせいか、ハンストのテントの中で眠りこけてしまった。ウトウトとするうちに「おれたちゃ、ハンストなのに、お前は卒論かよ」みたいなことが聞こえてきたが、そのまま眠りについた。
翌週、先生の研究室にお邪魔した。教団資料だけで書いた草稿に、先生はいたく不満だったようだ。何点か近世文書の史料を教えていただいたが、僕には十分に理解できず、不案内な他大学のキャンパスということも手伝って、寂しく家路についたのを覚えている。

僕の卒論提出(1)担当とテーマ決定

卒論提出シーズンである。今年は20名を超える大所帯で、この時期、大学にいる時間のうち、かなりの時間を卒論指導(というか、どう体裁を整えるかの工夫)に費やす。ふと自分の時はどうだったんだろうと思い返してみた。
僕が学部を過ごした大学は典型的なマスプロ大学。一学年100名定員の学科に専任教員は6名。今いる学科と比べると専任教員一人あたりの学生数は、ざっと倍である。卒論担当教員の決め方も「自分の好きな教員に相談して、教員がオッケーといったら交渉成立」みたいな感じだった。僕は他学科の非常勤の先生(近世日本宗教史の大御所)に卒論指導をお願いした。そんなことがまかり通る、よい大学というか、よい時代だった。
先生は指導を引き受ける際に、計画書のようなものを持ってくること、草稿を夏休み明けに提出することを伝えられ、こう付け加えられた。
「夏休み明けに目鼻がたっていないような卒論は、だいたい読む価値がない」
次の週に計画書を持参すると、さっと目を通されて、「こんな概論をなぞっただけで核のないもんじゃ、どうしようもない」というようなことを言われた。僕としては原稿用紙で20枚の立派なもの、しかも欧米の世俗化理論と日本民俗学のイエ概念を架橋するという野心的な計画書を書いたつもりでいたが、出鼻をくじかれた。先生は鞄の中から、『日本宗教史研究年報』を取り出され、そこに掲載されていた金光教の教学論集の総目次を示された。
たぶん、先生は、一例であげられたのか、教学論集の中の実証的な研究を範にせよ言われたかったのかもしれないが、それが、僕が金光教と天理教の世界観の比較を卒論で行おうと決めた瞬間でもあった。