吉本隆明『共同幻想論』角川文庫、1982年

 「哲学する」ことを志して大学に入ったものの、哲学・思想談義にさっぱりついていけず、己の勉強不足に苦しんだ時期があった。ある時、心優しい先輩がそっとネタ本を教えてくれたのが、この一冊との出会いである。
 手にした本書の角川文庫版が出たのが八〇年代前半。「ニューアカ(デミズム)」とやらが華やかつ軽やかに言論・思想界を席巻していた反面、通っていたアナクロな大学では移転と学費値上げの阻止闘争で、在学中ずっとバリストとロックアウトが繰り返されていた。そんな喧噪が全共闘運動のバイブルである本書を、より親しみやすいものしてくれた。
 とはいうものの、戦後最大の思想家(今では吉本ばななパパといった方が通りがいいか)が著した渾身の国家論は、そうとっつきやすいものではなく、本書で検討された『古事記』と柳田国男『遠野物語』をまず読むことにしたのを覚えている。再度、本書を繙いたのは大学四年の時だった。本学で言えば室友会にあたる学生組織の執行部引き継ぎや運動の総括で、僕は悶々としてていた。遅ればせながら身をもって体験した、この「個と共同性」の位相を、宗教・法・国家まで射程に入れて論じた本書の内容は魅力的だった。思想を大衆の基底から捉えようとうする手法も、その後携わることになる民衆宗教・新宗教研究への橋渡しをしてくれたといえる。
 それから一〇年して、僕はオウム事件をめぐって『産経新聞』のインタビュアーとして吉本氏のお宅にお邪魔していた。インタビュー内容は氏の『超資本主義』『尊師麻原は我が弟子にあらず』などに転載され、吉本氏の発言は大きな議論を巻き起こし、僕もその渦の隅っこの方で巻き込まれることとなった。いろいろな人から批判を頂戴したり、激励されたりもした。その顛末は小浜逸郎『現代思想の困った人たち』を参照されたいが、そこで交わされた宗教や思想、そして「発言する」こと自体をめぐる議論は今でも僕の中で整理がついていない。
 僕のやや遅れた第二の誕生は『共同幻想論』から始まったといって過言ではない。未解決の課題をはらむ問題提起の書である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*