石崎正雄編『教祖とその周辺―天理教史の周辺を読む―』天理教道友社、1991年

    一
 近年、新宗教に関する研究が多くなっていくなかで、天理教は特に研究が進んでいる教団の一つである。同時に天理教は天理大学や天理教校などの研究教育機関を擁し、教団内で極めて質の高い研究が進められていることでも知られている。そしてそれは時に教団外の天理教研究に対する厳しい姿勢としてあらわれることもある。小栗純子氏の『日本の近代社会と天理教』(評論社、一九六九)に対する安井幹夫氏の批判(1)や、村上重良氏の『近代民衆宗教史の研究』(増訂版、法蔵館、一九六三)、元天理教教会本部修養科講師の矢島英雄氏の『中山みき研究ノート』(立風書房、一九八七)に対する天理教青年会機関誌上の批判(2)などは、そのほんの一例である。
 一般に教団外の研究者に対する教団側の批判は、実証研究に対する神学的批判という平行線をたどることが少なくない。しかし天理教のばあい、実証研究に対しては、その史料の扱い方や検証の仕方などの問題点を指摘していくという歴史学を背景とした実証的な立場からの批判が中心である。
 もちろん客観的に実証できないものが全て排斥される必要はない。なぜならば、そもそも天保九年に天理教教祖中山みきが、彼女を通して神が顕現する立場(天理教用語で「月日のやしろ」という)となり、今もなお在世中と同様の救済を続けているという神学的内容自体、たとえ実証できずとも(あるいは実証できたとしても)、人々の信仰によって十分基礎づけられている、いわば信仰的事実であるからである。天理教の教学はこの神学的アプローチと実証的アプローチがともに追求されている。そして両者が有機的な連関をなしていることは、なによりも天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』(天理教道友社、一九五六)など、一連の教団刊行物をみれば明らかであろう。
 さてこのような天理教の教学を背景に本書は執筆されている。むろん中山みきが「「月日のやしろ」となられた」(i頁)信仰的事実が大前提にあることはいうまでもない。しかし本書はこうした神学的アプローチよりも、実証的アプローチの方にウエイトがおかれている。また表題には「教祖とその周辺」とあるが、教祖よりもその周辺の方に重きがおかれている。すなわち本書は初期天理教というよりは、幕末維新期の中山家を取り巻く社会状況の記述といった色彩が濃い。それは当時の社会状況の知識を得ることで、中山みきの言行、なかでも彼女が社会や歴史に対してどのような認識をもっていたのかを正しく理解することができからである。これが本書のねらいであると考えられる。
 以下、本書に収められている論文を紹介していきたい。


    二
 本書は五人の執筆者による七本の論文をまとめたものである。簡単にその概要を記していこう。
 石崎正雄氏の「教祖在世時代の村の「助け合い」」は、幕末期の人間関係を士農工商の身分制度、村落の政治的な支配関係、農作業や金融組織・組などの経済的結合、そして血縁的結合や宗教的結合などから論じたものである。中山家のあった庄屋敷村について述べたものではなく、対象地域は限定されていない。後続の論文が天理教に関わる事例を扱ってているのに対して、かなり一般的な内容となっているといえる。
 池田士郎氏の「ひながたと貧」は、中山みきの歩んできた足跡(天理教用語で「ひながた」という)、そのなかでも天保九年の神憑り後から、家財道具はもちろん田畑をも処分して、近隣の人々へ施して「貧に落ち切れ」を実行した意味を問うものである。そしてそれは単に貧困に身を置くというだけではなく、みきに付き従う者にとっては封建的な価値観や道徳観を捨てることをも意味していたという。
 幡鎌一弘氏の「吉田家の大和国の神職支配と天理教」は、天理図書館蔵の近世文書などをもとに天理教や近在の神社と吉田家の関係を述べたものである。それによれば吉田家の支配下に組み込まれた大神神社に対して、石上神宮は吉田家の支配を拒み、大和神社は朝廷と結び付くことで吉田家からの離脱を計ったという。そこで吉田家の支配下に入った天理教は石上神宮との間に軋轢が生じたと分析されている。
 早坂正章氏の「国家神道体制下における天理教団」は、警察等に提出した手続書や教団公認運動の際の書類にみられる神名の使い分けを中心に、天理教が常に政府に対する表明的側面と伝道などの実際的側面の二面性を有していたことを明らかにしている。天理教は吉田家の配下に入った後も、真言宗の寺院の講社となり、さらには神道事務局に所属する。その時々で神名や儀礼に変更がみられたが、同時に本来の神名や中山みきが定めた「つとめ」にこだわり続けてもいた。それが当時の史料に時には象徴的に、そして時には明確にあらわれていることが示されている。
 池田士郎氏の「原典成立とその時代」と幡鎌一弘氏の「王政復古・神仏分離と天理教」は、当時の天理教の神道化の動きについて天理教図書館蔵の近世文書をもとに論じている。池田氏は教部省の国民教化運動の余波が、中山家にも及び、明治六年一一月には中山家でも石上神社の派出説教が行われ、一五〇名もの聴衆が集まったことを明らかにしている。幡鎌氏は中山家ではいち早く神葬祭を行うなど、神道化を進める動きがあったことを記している。そして両氏は明治七年一月に執筆された中山みきの「おふでさき」第三号以降をみると、政府の意向に沿った教化活動を進める人々の行動を厳しく諫め、神道化を進める人々に純粋に彼女の示す教えに耳を傾けるように、そして天理教固有の儀礼である「つとめ」を行うようにと促す内容になっていることに注目している。
 上野利夫氏の「秀司「覚書」を読む」は中山みきの長男の記した覚書を紹介したもので、量的には本書の約半分を占めている。ここで取りあげられている文献は文久元年から翌年にかけてものと、慶応四年、明治三年、五年の四種類である。内容はそれぞれ異なるが、賽銭、金品の貸借、金銭の出入りなどが中心である。上野氏はこの覚書を単に翻刻するだけではなく、流通していた貨幣の種類や米価・綿価の変遷など、詳細な資料を用いて説明している。ここで明らかにされた覚書は初期天理教を理解するうえで重要なのはいうまでもないが、当時の大和の人々が一体何をいくらくらいで買って食べていたのか、また例えば相撲見物に行ったらどのくらい祝儀を出すのか、賽銭の相場はどのくらいかなど、庶民の生活史を知るうえでも貴重なものといえよう。
    三
 本書には信仰者と権力との攻防や、中山みきの示したとされる奇跡譚などはほとんどでてこない。歴史的な事実を史料に基づいて淡々と描き、必要最低限の解釈を加えているといった印象を評者は持った。その意味で本書に官憲の弾圧に屈せず闘い抜いた中山みき像や、奇跡的な病気治しを施す類い希なる救済者としての中山みき像を期待することはできない。否、むしろ本書はこうした過剰な意味づけから中山みきを解き放すことを意図し、そのためにもまず社会的背景を正確に描きだすという作業に徹したのかもしれない。 確かに前述の村上氏の研究であれば、「おふでさき」第三号は「みきの権力批判」「権力の前途への警告」(前掲書、一四三〜一四四頁)を中心に解釈されているなど、中山みきの反権力的性格が鮮明にされている。しかしこうした見方は国家権力の弾圧に抗する教団創始者といった意味合いの強いステレオタイプに陥る危険性をもはらんでいた。それに対して本書では、例えば同じ「おふでさき」第三号でも「教祖は親神の教えを取り次ぐべき側の者が新政府の宗教行政に手を貸すことを厳しく戒められている」(一八九頁)、「親神の「ざんねん」(略)は国家権力に向けられているというよりは、(略)それを受け入れようとしている人々の姿勢にあったのでないか。(略)「おふでさき」の基調としては、政府の国民教化へ対抗するとか、政府へ布教伝道しようということを言おうとしているのではないのである。つまり、教祖自ら政府に弾圧されることを求めた姿勢の中には、人々の心のそうじを図り、さらにつとめの完成を促されたことがうかがえるのである」(二一〇頁)と、中山みきと信者との関係やその心のあり方に主眼が置かれている。
 同じような問題は神名の変遷をどう解釈するかにもあらわれている。天理教では天輪王明神、転輪王、記紀の神々といった具合に神名の変更がみられた。先の矢島氏であれば、神名の変更については、「これは大きな教理の変質です。(略)これは高天原の神々、つまり天皇家の先祖を表わすことになってしまいます。力で民を支配し、奉仕させ、捧げさせる神々なのです」(前掲書、一四八頁)と解釈されている。これもやはり教団創始者の意に反して堕落していく教団というパターン化された図式であり、ある特定の意味がやや過剰に中山みきに付与されているといえよう。それに対して本書では神名の変更を克明にたどりながらも、これは教団の本質そのものの変革ではなく、活動を展開するするうえでの妨害から身を守るための偽装であり、「教祖在世中は、教祖の救済活動そのものが教団の内実を物語るものであり、常にその内実は、偽装的表明より優越していた」(一六七頁)という。つまり神名が変わっても、教えの本質は変わらないというのである。
 もちろんここで村上氏や矢島氏の研究と比べて、本書の方がより「客観的」であるとか、「価値中立的」であるとかをいっているのではない。史料を提示することにつとめたからといって価値観や解釈から逃れられたわけではない。ただ比較すれば、同じ天理教の神道化の動向や神名の変遷を扱いながらも、村上氏や矢島氏が国家と宗教、抑圧と被抑圧といった巨視的な戦略をもって読み込んでいるのに対して、本書はこれを微視的に中山家とそれをめぐる人々との関係によってとらえようという立場にあるように思える。
    四
 最初に評者は本書のねらいが当時の社会状況の知識を得ることで、中山みきの言行、なかでも彼女が社会や歴史に対してどのような認識をもっていたのかを正しく理解することにあると述べた。本書のはしがきでも中山みきが生きた時代はまさに社会変動期であり、彼女の示した足跡は「単に信仰者の個人的な問題に対処するこころの治め方を教えるというだけではなく、混沌とした激動の世界を立て替える世直しの手本でもある、ということを意味しているのではないだろうか」(i頁)と書かれている。
 確かに本書で扱われた中山家を中心とする地域共同体の宗教状況や物価の動向など、当時の社会状況の記述は中山みきの示した教え理解するうえで極め有益である。しかし本書が全体として、こうした社会状況なかで中山みきの言行がどのような意味を持っているのかという点についてはあまり展開されていない。もっとも池田氏の二つの論文が、中山家の経済状態の変化(「貧に落ち切れ」を実践すること)が持つ意味や、明治七年に「おふださき」が約五年ぶりに、しかも大量に執筆され始めた意味を神道化のとの関係から追求している。また幡鎌氏の「王政復古・神仏分離と天理教」も「おふでさき」に書かれた 「神のざんねん」がどこに向けられていたかをやはり中山家の神道化の動きのなかで問うている。しかし他の論文は前述の通り中山家の取り巻く社会状況の記述が中心で、そこでの中山みきの言行の持つ意味の解釈は抑制されている。
 もちろん「当時の社会や教祖の周辺の事情を理解する上で参考になると思われる論考を選んだ」(ii頁)という本書の目的は十分に達成されている。中山家をめぐる歴史的事実として、例えば秀司の子おしゅうの死去に際して神葬祭が用いれたことや、国民教化運動の一環として中山家で説教が行われたことなどは、多分あまり知られていないであろうし、『稿本天理教教祖伝』(前掲書)にも記載されていない。また中山みき在世中の「教祖の周辺」に関しては、高野友治氏などの研究83)が一般に知られているが、本書はそうした業績を当然踏まえたうえで、さらに新たな史料が紹介され、論じられている。その意味で本書は天理教の実証研究の新たな地平を切り拓いたといえよう。そしてこの確固たる基盤のうえに、より豊かな中山みき像が描かれることを、評者は心待ちにしている。
    註
(1)安井幹夫「小栗純子『日本の近代社会と天理教』批判―とくに文献引用をめぐる  諸問題―」(『天理教校論叢』第一三号、一九七六)、同「「小栗純子『日本の近  代社会と天理教』批判」その後」(『ひがし通信』創刊号、一九七九)。
(2)村上氏に対する批判は深谷善太郎「幕末期の大和の状況―立教をめぐる俗説をく  つがえす―」(『あらきとうりよう』一四六号、一九八七)。矢島氏に対する批判  は『あらきとうりよう』一四九号、一九八七。
(3)『高野友治著作集』第一巻〔御存命の頃(新版)〕天理教道友社、一九八〇(初版  は一九三六)。伊藤房和・高野友治・丸川仁夫・金子圭助「天理教教会設立当時の社  会情勢」(『天理大学学報』一七―一、一九六六年一月)など。

2 comments

  1. #やまさん より:

    通りすがりのものです。
    この本の編者名ですが、「石橋正雄」ではなく、「石崎正雄」ですよね。

  2. 弓山達也 より:

    間違いでした。ご指摘ありがとうございます。訂正させていただきます。

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