見識と個性

学生に「見識を示せ」と言ったら、違和感を表明された。
「人それぞれが違った考えをしていて、人によって物事を感じる形は違う」から、「見識」という名の「「正当性」を受け入れなければならないなんて」抵抗があるし、「感じる側の資質、そんなものが問われるのはちょっと窮屈」だと言う。
この学生は、ある程度わかっているから伝えたい(やがて時期が来れば受講者全員にも伝えたい。)。
個性って何だろう。個々人がバラバラに感じ、勝手に判断することが個性なのだろうか。個人主義が基本の市民社会が没個性の画一化の大衆社会に流れていったのは、結局は、個々人がバラバラであったから。そこに社会的な見識とか、コンセンサスなりを見出す努力を怠っている限り、人々はバラバラだ。そんなのは個性とは言わない。
個性とは隣の人とどう違うか、昨日の僕とどう違うかだ。そこには何らかの違いを認め合わない限り、比べることもできない。
件の学生は「他人を論破して潰したり、勝ったり、それは事務的に必要なだけで、できるものなら私はしたくない」、またブログに関して「どんなページにもそこに記事がある以上は「想い」がある。それを「見識」として無理に一つにまとめる必要があるか」とも疑問を呈している。
見識を示すことは、何も論破したり、勝敗を決めることではない。自分の個性を認めることは、他人の個性も認めることだ。僕はA君より怒りっぽいけど、Bさんよりは穏和だ。そういうマッピングの中から、それぞれの個性が位置づけられていくんじゃないか。マップに配置することは、一つにまとめることではない。前後左右に異なる個性を配置すること(そのために見識=基準が必要)こそ、個性の多様性を認めることに直結しているだ

4 comments

  1. n_asaka より:

    自らの記事を書いたときに別に先生の発言に完全な意義を申し立てたかったわけではないのです。
    だから私は「違和感」と書いたのです。
    そして先生がここに示してくれた返答を読んで、「見識」が個性を一つ人統合することではない、といことがわかった。
    他人という違う個性と比較することによってまた別の個性が確立する、という意見は私もそう思っています。
    ただ、文字の量や、情報の量ではなく、スピという定義しづらいものがまな板の上にあるお陰で、確かなスピの基準がなければ、比較も難しいような気がしたのです。
    恐らくは先生が伝える時にか伝わったときにか、優劣という概念が心に引っかかり、スピと感じたことに優劣はあるのか、という違和感に結びついたのであると思います。
    なんであれ、他の人の意見を聞くことは、思考の助けになると思いました。

  2. sanyou2 より:

     僕は今まで、他の授業でも班活動をたくさんしてきましたが、常に論争において他の班員から僕の意見をつぶされる立場にあってきました。
     僕はそんなの全然気にしていないし、結果的に自分がやな思いをしてもそれを甘んじて受け入れることが多いです。(大事なのはそんなところにあるわけではありませんし)
     しかし、逆にこちらが同じことをすると一部の人は露骨に嫌な態度を取ることがありげんなりします。(故にそれ以上話し合いが発展することはありません)
     「個性の多様性を認めること」とありますが、見識や価値観をぶつけ合うところまで人間関係が発展することがまずありません。
     「やはり自分のやり方に問題があるのかなあ」と悩む今日この頃です。
     

  3. pure より:

    見識とは完成度ではないですかね。
    完成度が高い料理ならば寿司でもスパゲッティでも、多様性は歓迎です。
    でも、握りそこなった寿司やだまだまソースのスパゲッティを食べたい人はいない。
    そういうことでしょう。

  4. 弓山達也 より:

    見識とは、対象をアレンジする「美しさ」でもありますね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*