新堂冬樹『カリスマ』上下巻、徳間書店、2001年

 「事実は小説よりも奇なり」「小説もどきの」という常套句で語られることがあったオウム真理教は、これまで何度か小説の題材となっている。大江健三郎『宙返り』(上下巻、講談社)、佐木隆三『成就者たち』(講談社)、新堂冬樹『カリスマ』(上下巻、徳間書店)、そして現在『週刊新潮』に連載中の馳星周『無(ナーダ)』などがそうである。『宙返り』が教祖の転向と死を乗り越えていく弟子たちの魂の行方を壮大な物語に託し、『成就者たち』『無』が事件に関わった弟子たちの内面に着目しているのに対して、『カリスマ』は魂や内面とは無関係な、人間の徹底的に俗なる部分にスポットを当てている点で他の作品と趣きを異にしている。
 オウムを下地にしているといっても、霊感霊視商法など、いわゆる他の「カルト」の手口も本書にはふんだんに登場してくる。その出だしの猟奇的光景は一九八七年に神奈川県下で、ロックミュージシャンがその妻らに殺害され、内蔵を浄められていた「悪魔祓い殺人事件」を彷彿とさせる。物語では、ある教団の教祖と彼に見込まれた女性とその家族をめぐって、教祖の生い立ち、彼を取り巻く出家者たち、そして教団を倒そうとする反カルト陣営が交錯。女房をカルトに取られまいと奮闘する夫や、ニセ教祖に付き従ってなぜかそれなりの境地に達してしまったり、逆に自慰に耽って修行が進まなかったりする弟子たちがからまわりする。
 帯に多くの賞賛の辞が献上されているものの、相反する意見も聞こえてくる。例えば信者・元信者を交え、不謹慎の顰みを省みずにオウムねたを云々する「オウマー」と呼ばれる人たちがいる。卓抜した情報収集力はあなどれないが、彼らの決して上品とはいえないネット掲示板ですら、本書は「表現が下品」「下劣」「人物描写や性格描写がいやに図式的」「平板」と酷評されている。
 だが、私はこう評された部分こそが、この作品の真骨頂であるという印象を持っている。宗教研究者や一部のジャーナリストはオウムの宗教性といった、オウムを現代宗教・現代社会の負の側面の象徴あるいは反映として描き出そうしてきた。しかし本書を読み進めていくうちに、「ひょっとしてそれは買い被りすぎではなかったのか」という反省が頭をよぎる。宗教学者の肩書きでカルト被害の関係者に会うと必ずといっていいほど質問されること―「オウムを宗教だと思っているんですか」。宗教学には宗教の真偽や善悪を問わないという原則があるが、もしかすると私たちはその原則から見直しを始めなければならないかもしれない。
 ところで教祖の女性関係だけに関心を寄せたものに松田美智子『オウムの女』(早稲田出版)が、またそのいかがわしさのみを描いたものとしては田村智・小松賢寿『麻原おっさん地獄』(朝日新聞社) などがある。かかる俗物性を暴いたルポとも本書が異なる点は、九三五頁を一気に読ませてしまう麻薬のような魅力と恥ずかしくなるような安っぽさの同居であり、それは本書流に言えば自慰行為の快楽とその後に押し寄せてくる虚しさに似ている。実はカルトにも同じような快楽と虚しさがあり、「宗教的嗜癖性」と呼ぶ研究者もいるが、満たされないものをカルトで満たそうとして家庭を破壊する本書のマドンナたちは、まさにそれを体現している。
 このおぞましさへの直視がカルトにアプローチするには必要である。「下劣」と評される本書の表現形式は、カルトのある種の側面を描きだすのに多分に寄与している。そしてこの下劣さは私たちの内にも潜んでおり、本書をゲラゲラ笑いながら読み、それこそ凄惨なカルト事件をワイドショーで楽しんでしまう己のおぞましさとも通じる。カルトを買い被る必要はない。しかし、自分の醜悪さを直視せずにカルトを批判することもできないのだ。

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