島薗進著『現代救済宗教論』青弓社、1992年

1、はじめに
 本書は一般にあまりなじみのない救済宗教という用語や新宗教の概念規定に始まり、伝統的仏教との相違、社会変動との関わり、地球規模の宗教現象のなかでの位置づけなどの多彩な内容が、著者(島薗氏、以下同じ)独自の視角によって極めて濃縮した形でまとめられている。
 本書は序章を含めて10章構成になっており、序章では本書全体の鳥瞰図が描かれており、問題の所在が明白にされている。これ以降の章は大きく4部にわけれている。第1部は新宗教の概念、発生基盤、類型について。第2部は大乗仏教と新宗教との関係が、そして第3部では日本の近代化と民衆宗教との関係が扱われている。そして最後の第4部では日系新宗教の海外進出と日米の宗教状況の比較が行われている。いずれも極めて意欲的な主題であることはいうまでもない。
 こうした本書の主題を、評者(弓山、以下同じ)は網羅的に論ずることはできないし、またこれまで井上順孝氏(『文化会議』276、1992)や沼田健哉氏(『桃山学院大学社会学論集』26-1、1992)や西山茂氏(『宗教研究』293、1992)による本書の書評が発表され、これらで細部にわたるほぼ全ての問題点が語りつくされているようにも思える。従って本評ではあまり各論には触れず、本書全体を通しての特色や著者の問題意識などをとりあげていきたい。


2、本書の特色
(1)救済観の変遷
 【概略】本書では近世から近現代にかけて、宗教のもつ救済観が大きく変わってきているのだということが前提とされている。著者はベラーの宗教の進化を念頭に置きながら、歴史宗教→新宗教→新霊性運動という図式を描いている。仏教、キリスト教、イスラムに代表される歴史宗教が国家と結び付き、また時にはその正当性の原理として機能していたのに対し、新宗教は大衆社会の出現や都市化、産業化、メディアの革新とともに登場してくる。そして歴史宗教が、来世救済と他力救済を志向するのに対して、新宗教は現世救済と自力救済、さらには大衆主義、体験主義、実力主義が重んじられるという。
 しかし新宗教が個人的な救済を突き詰めていくなかで、人格神や教祖に身を委ねたり、教団の組織や権威に依存したりする救済のあり方を否定し、個人の霊性を探求する新霊性運動が登場してきた。この運動は無私の奉仕や友愛・同情・尊敬などの本質意志に基づく結合を理念とする歴史宗教や新宗教といった救済宗教の枠組を越えるもので、この抬頭によって救済宗教は後退を余儀無くされる。
 【意義】近代化は伝統的共同体的な社会を解体に追いやったが、新宗教が昔日の共同体に替わる個々人の集う信仰共同体としての機能を果たし、特に根無し草的な都市中間層を中心に強くアピールしてきたという説は、これまで強く支持されてきた。著者はこうした新宗教論を一歩進めて、「現代社会の豊かさとラディカルな個人主義」(P.23)がさらに現代宗教をどのように変容させたかを分析し、本書の意義もここにあると思う。そして1970年代以降の新たな動向として「新宗教のような共同体的宗教ではなく、主としてメディアによって思想や態度を共有している個々人の、ゆるやかな結合が作りだす宗教運動」(p.246)をあげている。1970年代以降の宗教状況に対しては、西山茂氏の「新宗教の現況」( 『歴史公論』5-7、1979年7月)での新新宗教論や、大村英昭氏との共編『現代人の宗教』(有斐閣、1988)第5章での霊術系新宗教とその背後にある神秘呪術ブーム論、さらに井上順孝氏のように「宗教ブーム」論や新新宗教論に批判的で、実態がともなわない宗教情報ブームだとする見方(『新宗教の解読』筑摩書房、1992、第10、11章)などがある。著者も同時期を対象にしながら、自律した個人の意識変容を主張する新霊性運動の登場を特徴とする考えているといえよう。
 【疑問】こうした歴史宗教→新宗教→新霊性運動という流れのなかで、救済がいわば個人化してくるのは、現代における共同体的な社会の解体と個人主義の深まりの反映ととらえられている。確かに現代宗教を概観すると、かつてのように教祖や神が聖なるものの源泉で、人々がそこに結集するといった徒党を組んだ形態より、むしろ規範的な教義や組織にとらわれない個人による意識変容や霊性の開化への関心の高さが目につくといえる。しかし見方をかえれば現代社会の方が、宗教状況よりはるかに個人化の度合いは著しく深刻であり、むしろ個人主義な新霊性運動といえども、こうした個人化された社会に対する反動または揺れ戻しとみることも可能であろう。
 なぜならばそもそもニューエイジ運動の発信源となっているエサレン研究所やラジニーシのアシュラムが半ばコニューンの様相を呈しているように、こうした運動は決して共同性の回復と無関係ではない。心理療法やチャネリングのワークショップに参加し、家族との結び付きを再確認したり、秘密めいた情報を共有しあうことでメンバーは一体感や連帯感を獲得したりしているであろう。つまり著者は個人主義が深まる社会に対応する形で宗教の個人化が進行しているとみるわけだが、逆に新霊性運動にしろ、現代宗教を共同性の回復とみなすこともできるのではないか。
 また著者がアメリカのニューエイジ運動と日本の現代宗教状況をパラレルに見ていることにも疑問が残る。確かに数年後れでアメリカのブームが日本に到来してきているのは事実であり、現象面では日米の宗教状況は似ているのかもしれない。しかしベトナム戦争・環境破壊・人間疎外といった現代社会の病に対する深い反省からくる揺れ戻し・逃避・挑戦がアメリカのニューエイジ運動の背景にあるはずである。この深刻さと強靭さが、「ブーム」とされる日本の宗教状況には存在するかいうと、評者はかなり悲観的である。ましてや新霊性運動と呼ばれる現象が、たとえ運動としての組織性が低くとも、共通する問題意識や情熱によって人々に支えられているであろうか。一見人々の意識や社会までも変革するのでないかという淡い予感を漂わせながら、皮相なブームが商品化され、消費され尽くされ、やがて人々から忘れ去られていった例を、我々はポストモダンやニューアカデミズムに見た。著者は新霊性運動を「多元化や情報化の進む先進社会にふさわしい、強力な現代的宗教勢力のひとつ」(p.239)と見ているが、たとえ構成要素は東洋的であっても、自らの内からこの運動を自覚的に生みだしたアメリカと、「ブーム」や商品として流布している日本とでは、今後の運動の展開に大きな違いがでてくるのではないだろうか。
(2)生命主義的救済観
 【概略】新宗教の救済観の共通の構造として提起され、その後の新宗教研究にも大きな影響を与えた生命主義的救済観という概念も、本書のなかで重要な位置を占めている。すなわち?歴史宗教や伝統的仏教との救済の相違として(pp.15-16,85,225) 、?新宗教の概念規定の一指標として(pp.46-47)、?近代の大衆的倫理革新と宗教との関わりの一つの型として(pp.147-151)、?異文化進出の成功の要因として(p.210)、新宗教の生命主義的救済観ないしは生命主義的思想が指摘されている。??に関しては異論はないとしても、??については少し説明を要する。
 著者は、伝統的な社会結合が近代化によって解体させられたことにより、民衆は近代的な社会関係に適応していくため、他者や自然との連帯についての新たな表象を獲得する必要に迫られたとする。そして生命主義的思想は、こうした近代化に直面した民衆のもっとも基底的なレベルでの思想的課題に答えようとしたものだという。同じように海外で日系新宗教が受け入れられているのも、生命主義的救済観が、近代化の進みつつある国々でアピールしたからだという。つまり工業化や都市化が進行し、変動の激しい競争社会(主に第三世界)では、現世での救済、自助努力、人間や存在一般そのものに神性を認めることを重んじる生命主義的救済観が魅力をもって受け入れられやすいというのだ。
 【意義】著者も含め、対馬路人氏らによって「新宗教における生命主義的救済観」( 『思想』665、1979)が発表されて以来、この概念はいろいろな形で検討されてきた。本書では特に社会変動の面から、この概念を検討しているといってよいだろう。そして生命主義的救済観を人間相互や自然との伝統的な紐帯が解体するなか(宗教進化の図式に従えば歴史宗教から新宗教への移行)で、それに替わる新たな思想(一言でいえば近代思想)とみなしている点が特徴的である。
 【疑問】しかし言うまでもなくこの論文では、新宗教の救済観が生命主義の形をとり、またこれが広範な人々に受け入れられていった背景としては、その近代的性格とともに伝統との連続性も強調されていたはずである。つまり封建制からの解放や故郷喪失とならんで、農耕社会の文化的伝統や民俗宗教という基盤が指摘されていた。本書では歴史宗教や伝統的仏教との相違を際立たせるあまり、生命主義的救済観の近代的性格という一面のみが強調され過ぎているのではないだろうか。
 また同じくこの論文では、生命主義的救済観とともに、これとは異質の終末論的根本主義、そしてコミューンを目指すものと神秘呪術を重視するものに大別される対抗文化主義が、新たな救済観としてあげられていた。本書では新宗教の特徴を生命主義的救済観に収斂させるあまり、これとは異なる救済観を志向する新宗教への目配りが足りないような印象も持った。例えば第5章で昭和初年の霊友会が神国日本の法華経による救済を掲げていたとするが、同時期にやはり宗教的な権威の樹立により国家的危機を乗り越えるのだと主張していた皇道大本や天理本道の終末論的性格との比較も(特に初期霊友会のイデオローグ戸次貞雄には皇道大本の影響が見え隠れしているのだから)欲しいところであった。
 いずれにしても生命主義が多くの新宗教に等しく共有される救済観であることは疑いないものの、さらにその後、新宗教の救済として「メシア的救済」「心理療法的救済」「呪術的な癒し」などの用語が提起されてきている(註1)。こうしたいわば社会、精神、肉体の3つのレベルの変革に関わる救済が生命主義的救済観のサブカテゴリーとなるのか、また並列する類型となるのか、救済観の類型化と相互の連関の解明が、今後の課題となってくるように思われる。
(3)その他の問題点
 この他、各論においていくつか問題点が見出だされる。
 ?前述の書評でも指摘されていることだが、本書では新宗教、仏教系新宗教、新新宗教それぞれの類型化が試みられている(第3・4・9章)ものの、いずれも中間型がでてしまい、本来網羅的かつ排他的でなければならない類型化が有効に機能していないきらいがある。
 ?第7章では近代化や都市化によって技術的思考や操作的態度が浸透し、これが霊を技術的、操作的に統御しようとする精霊信仰と親和性をもつというが、近代化や都市化のなかのどのような要因が人々の心性を技術的、操作的にしたのか、そのメカニズムはかならずしも明らかにされていない。
 ?第9章の新新宗教の特徴も、提唱者の西山氏の前掲論文(1979)による規定と異なり、終末論的な根本主義をかかげるセクト的なものがすっぽりと抜け落ちているが、これについては第7章(p.173)でわずかに触れてあるだけで後は何の説明もない。
 ?また本書の最後にニューエイジ運動と新霊性運動との関係が「ニューエイジ運動=新霊性運動のかなりの部分+新新宗教の一部(個人参加型の一部)。/新霊性運動=ニューエイジ運動のほとんど+その他の個人主義的自己変容運動」と「定式化」(p.244) されている。評者はこの箇所だけは、疑問が残るというよりも、全く理解ができなかった。たとえ理解ができたとしても、この「定式化」にはどのような意味があるのだろうか。
 以上、思いつくままに問題点をあげてみたが、紙幅の関係上ここではこれ以上言及しない。次に著者が1980年前後に相次いで発表した教祖に関する諸論文と本書を比較しつつ、ある種の〈島薗進〉論を若干試みてみたい。
3、内在的理解の地平から
 ところで著者が新宗教に関する著書を出版されると聞いた時、評者は中山みきや金光大神に関する一連の論文をまとめられるのだなと思った。本書が現代宗教の類型化を強く志向しているのに対し、この一連の論文は周知の如く内在的な理解のアプローチに貫かれていた。内在的理解とは「一人の民衆としての教祖の社会的経験の性格を明らかにし、彼らの信仰の内容をその基盤である民俗信仰との関わりのなかでとらえ、しかも彼らの経験と信仰の意味を内面にたちいって理解しようとする」(井上順孝他『新宗教研究調査ハンドブック』雄山閣出版、1984、p.51)と規定されているが、評者はさらに内在的理解の特徴として、宗教者の生のあり方を、書き手自身の生と重ねあわせて記述する態度という条件を付け加えたい。そして特に著者の場合、その傾向が強いといえる。
 孤独と絶望のなかで神の意志や不幸の原因に対する問を反芻し、独自の境地なり思想なりを形成させていく中山みきや金光大神の姿が、著者の「神がかりから救けまで」(『駒沢大学仏教学部論集』8、1977)、「疑いと信仰の間」(『筑波大学哲学思想学系論集』3、1978)、「金神・厄年・精霊」(『筑波大学哲学思想学系論集』5、1980)などでは描かれていた。これらを読みながら、そこに1960年代末の大衆運動の昂揚の後に自らの政治的・思想的営為の総括を迫られた全共闘世代の厳粛な自己切開の延長線上の問題意識を感じとったのは評者だけではないはずである(註2)。一連の論文は民俗宗教と新宗教との連続性の解明が、高く評価されたが、評者はむしろ書き手とその対象が織り成す緊張感の方にこそ魅力を感じている。
 こうした一連の論文と比べると本書は宗教者の内在的な理解を目指すというよりは、前述の通り、類型化の方に強い関心が払われている。もちろん扱う対象が異なるのであるから、分析の視角が違って当然である。しかし評者はここに著者の問題意識の変化をも感じとっている。すなわち個人の内面の葛藤や思想形成よりも、宗教類型の理論化や国際的な比較の方に著者の関心が移ってきているのであろう。しかし教祖を扱った論文と比べるとやや対象を突き放した形で書かれている本書のなかで、新霊性運動のみは極めて共感的にとらえられている。それは新霊性運動の「科学宗教複合的世界観の登場によって、合理主義と救済宗教のギャップを埋める可能性が開けたとも見える」(p.22)、「マルクス主義などのユートピア的な社会主義運動の後継者としても捉えられる」(p.247)という言葉からもうかがえる。
 もちろん著者は人間の本当の結合や心の豊かさ、また社会の改善といった側面では新霊性運動を全面的に支持しているわけではない。特に「新霊性運動の集団ぎらいは、現代社会における官僚制の肥大化と人間関係の薄まりの追認という性格をもっていること」(p.24)に注意を促している。とはいうものの自律した個人の霊的覚醒、霊的存在との交流、科学と霊性との統合などの点では、本書を読む限り新霊性運動に大きな期待を寄せているようである。だがそれこそ実態の定かではない「宗教ブーム」の追認の姿勢といえはしないだろうか。そして先の教祖の内在的な理解により書かれた諸論文で、高い緊張感を経験しただけに、著者のこの「宗教ブーム」やリアリティの乏しい現実の追認・肯定の態度に違和感や戸惑いを覚える読者も少なくないであろう。
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 以上、感想めいた文章が長くなったが、評者の読み間違いや深読みがあったかもしれないし、本来、このような印象だけでものをいう書評は許されないのかもしれない。
 ところで本評は、去る1992年12月12日に東京大学内の山上会館で行われた本書の合評会に提出した発題原稿を若干加筆訂正したものである。当日はさまざまな意見が交換されが、そのなかでも本書を自分の生きざまに照し合わせながら読むことができたという感想が印象的であった。同様の感想、具体的には新宗教の教会に生れ、結婚し、留学し、子供が生れて大変な毎日だが、信仰があるからなんとかやってこれたといった体験を本書を読んで再確認できたという感想も、本書発行直後に聞いた。本書を自分の聖典であるという求道的な若き研究者もいるらしい。こう考えると本書の魅力は本評で論じたとことより、もっと別のところにあるのかもしれない。その意味で本評では本書の魅力を十分に伝えることができなかったが、各位の御寛恕を乞うばかりである。

(1)「メシア的救済」に関しては西山茂「教祖の誕生とメシア的救済」(小野泰博他編『日本宗教事典』弘文堂、1985)、「心理療法的救済」に関しては島薗進「生長の家と心理療法的救いの思想」(桜井徳太郎編『日本宗教の正統と異端』弘文堂、1988)、同「都市型新宗教の心なおし」(湯浅泰雄編『体系仏教と日本人』3、春秋社、1989)、「呪術的な癒し」に関しては永井美紀子「修養と呪術」(島薗進編『救いと徳』弘文堂、1992)を参照。
(2)なお著者が学生時代に共同執筆した東京大学新宗教運動研究会「浄霊と地上天国」(『伝統と現代』2-2、1971)では、知識人や土着のあり方など、全共闘運動でみられた問題意識が新宗教研究に濃厚に反映されている。こうした問題意識は、全共闘運動に思想的に大きな影響を与えた吉本隆明氏に負うところが大きいと考えられる。なお中沢新一氏が柄谷行人氏との対談「コンピューターと霊界」(『ユリイカ』15-6、1983、p.89)で、  「大学へ入ったころ、ぼくらの上の人たちっていうのはみんな、吉本狂いですからね。ことにぼくは宗教学科なんてとこにいましたから、そこの人たちはもうほとんど吉本。新興宗教の研究に入っていった人たちというのは、みんな吉本隆明の影響で入ってきます」と語っているのが興味深い。

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