井上順孝『新宗教の解読』筑摩書房、1991年

   一
 近年、新宗教に関する書籍は数多く出版されている。しかしそのほとんどが興味本位で書かれていたり、また単なる教団紹介で終わっていたりしているのが実情である。例えば現代の新宗教をめぐる現象を理解するのに何か一冊と尋ねられた場合、そう多くの研究書をあげることはできない。そしてこのことは新宗教という現在進行中の現象を的確にとらえることが、いかに困難かということを如実にあらわしているともいえよう。
 さて三年前に編者の一人として『新宗教事典』(弘文堂)を刊行した著者が、その蓄積と手腕をもって執筆した『正論』誌上の連載をまとめたものが本書である。表題通り、近現代の新宗教全体を扱い、読み解く内容となっている。以下、本書の構成と特色を述べていこう。
   二
 本書は一二章構成で、章ごとにテーマが設定されいるが、だいたい以下の四点が著者の本書執筆の主な視角のように思われる。
 ?まず情報化の進展とからめて、マスコミやジャーナリズムと新宗教との関係に強い関心が寄せられている。著者はマスコミの報道姿勢が社会的な新宗教観を決定するとともに、そこには人々の新宗教に対する漠然としたイメージが投影されているとする(第1章)。そして明治期の蓮門教と天理教に関する報道をおいながら、急速に拡大する教勢が人々の不安をかきたてながらも、新宗教が社会に根付き始めた様を描きだしている(第3章)。さらに現代のマスコミによる宗教批判を分析し、人々の宗教観や社会正義感をあぶりだしている(第10章)。
 ?同じように国家との関係や法的規制についても言及されている。新宗教は、近代日本に出現した一つの新しい宗教システムであるというのが本書の一貫した立場であり、こうした新たな勢力が活動を合法化するためには、布教・教化することが許される教導職の資格をとる必要に迫られたし、既存の宗教団体の傘下に入らざるをえなかった(第2章)。しかし急速に天皇の権威が高められ、愛国心が鼓舞されはじめる大正末からは、国家の依拠する原理をラディカルに推し進めようとする、またはこれと異なる原理を有する新宗教が軒並み取り締まられていった(第5章)。
 ?新宗教自体の変容に関してもかなりの分量がある。雨後の筍と称された敗戦後の新宗教のまさに簇生ともいうべき現象も、よく検討すれば、戦前からの運動を継承している教団が多く、いくつかの教団を除いてほとんどは一種の「マイナーチェンジ」だとする(第6章)。そして新宗教が既成化をたどるなか大型化し、その背景には教団のもつ万人布教者主義的な拡大再生産志向や時代の変化を先取りするような戦術があるという(第7、8章)。
 ?本書の後半部(第10〜12章)は新宗教の「新」の部分を問うているといってよい。ここでは宗教ブーム論や新新宗教論を、実態に即した概念ではないと批判し、さらに新宗教の類型化をいくつか提起している。そして最後では、知的レベルの向上、人間関係の変化、情報化の社会変動によって、宗教システムに大衆化、有機的な組織形態、宗教選択の機会の増大の新しい特徴がもたらされたことが結論づけられている。このように宗教システムを人に関わる要素(主体)、組織・機構に関わる要素(回路)、教えや儀礼などに関わる要素(情報)の三つの側面からとらえようとする試みは著者の前著『教派神道の形成』 (弘文堂、一九九一)から引き継がれたものである。
 この他、本書では伝統教団との関係(第4章)や異文化進出(第9章)もテーマとなっている。また巻末には六九教団の沿革が紹介されており便利である。
   三
 本来であればここであげた四点について、先行研究と比較しながらその意義や疑問点などを指摘していきたいところだが、紙幅の関係上、本書の際立った特色を二点だけとりあげたい。
 第一にマスコミ報道を手掛かりとして人々の宗教観を問題にする手法が鮮やかである。新宗教を報道するマスコミが伝える典型的な淫祠邪教のイメージは「病気治しに名を借りて、インチキ臭い行為、特に淫らな行為をなし、しかも金儲けを企んでいる宗教」(第10章)となるという。そしてこれを裏返すと禁欲的で清潔な態度、金銭面での清貧性、合理的な儀礼となる。著者はこの反転像こそ、近代に日本にもたらされたプロテスタントのイメージや儒教倫理と通じていると喝破する。これを踏まえると入信に際しての子供の家出、創始者のお家騒動、巨額のお布施など、新宗教の反家族的、営利主義的ともとられやすい事態に対して、なぜマスコミがかくも執拗な攻撃を繰り返すのかがよくわかる。
 価値観が多様化したとはいいながら、人々が新しい宗教に接する時に示す嫌悪観や不安感には共通のものがある。特に伝統的宗教のイメージと比較してみれば、それは一層明白になるであろう。マスコミはこうした人々の思惑を吸い上げると同時に、逆に社会正義の立場から新宗教のイメージを固定化する機能を果たしてきた。本書は単にマスコミ報道の傾向を示すだけではあきたらず、こうした我々が無意識のうちに培ってきた宗教観がどこに由来するのかを鋭く分析している。
 第二にやはり宗教ブーム論または新新宗教論への批判は無視できないだろう。宗教ブーム、新新宗教という概念をもって一九七〇年代以降に発展した新宗教を特徴づけようとする試みがなされてきたことは周知の通りである。しかしマスコミ報道のわりには、実際の宗教運動はというと、その規模は大きいものばかりとは限らない(例えばイエスの方舟やオウム真理教)。また宗教ブームもしくは新新宗教という概念をもって、宗教運動のどのような側面にスポットをあてようというのかは十分に検討されてこなかった。著者はニュース性の過多という観点から、こうした一九七〇年代以降の宗教への関心の強まりは、実は情報レベルの問題であり、宗教情報ブームというのが相応しいという。
 宗教ブームにしろ新新宗教にしろ、これらの概念はマスコミ用語として定着した観がある。そのためか新新宗教の概念の提唱者の西山茂氏をめぐっていくつかの対談はあったものの、これまで突っ込んだ議論はあまりなかった。その意味で本書において実態に即した立場から異議申し立てがなされたことは注目すべきことであろう。
   四
 さて二点のみに絞って本書の特色を述べてみたが、この他にも本書には、はっとすべき問題提起が随所にみられる。しかしながらそれらの提起が十分に展開されていないきらいがあることも否めない。例えば著者は大型教団になっていく新宗教の特徴を「現実的な理想主義」(第八章)といっているが、特定の教義なり活動なりの具体例に照らし合わせて論じられているわけではない。そして地域的な発展や本部と支部との関係を指標として新宗教を分類できる(第一一章)というが、これも可能性が示されるに留まっている。また新宗教の既成化を教えのレベル(「教祖の祭り上げ」と「教えの脱コンテキスト化」)と組織のレベルで論じているが(第七章)、これも先の宗教システムの主体・回路・情報の三側面と対応させて詳しく知りたいところである。
 もちろんこれら全てを「ちくまライブラリー」というハンディな叢書一冊のなかで論じ尽くすことはできない。だが本書で十分展開できなかった問題提起は別の形でまとめる旨の確約もあとがきに記されている。いずれにしてもこれらの論点が、これからの新宗教研究で大きな課題となることは間違いないであろう。          

2 comments

  1. 婚活 より:

    ちょーおもしろかったです

  2. モバゲー より:

    すべてDVD持ってます!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*