大澤真幸「恋愛の不可能性について」春秋社、1998年

 社会学者は、どうも人とは違ったことを言って相手を驚かせ、喜ぶ性癖があるようだ。例えば資本主義形成期においてキリスト教がその隠れた推進力の一つになったとか、自殺率は当事者の思惑を越えて、その社会の凝集性に反比例するとか‥‥。
 本書でも美は破壊において完成するだの、友と敵はほとんど見分けがつかないだのといったフレーズが次々と登場して読者を驚かせる。そもそも題名からしてそうだ。なぜ、恋愛が不可能性なのか。
 評者なりの言葉で述べるとこういうことだ。我々は通常、恋愛とは二人が一つになることと思っている。しかし、「わたし」にとっての「彼女」は、家事がうまいから好きなのでもなければ、背が高いから好きなのでもない。大袈裟にいえば、「わたし」を中心とする宇宙の中で「あの」としか指示できない、「あの彼女」だから好きなのである。この時、「あの彼女」は宇宙の中で決して中心、つまり「わたし」になれない位置にいる他者性として立ちあらわれている。すなわち、恋愛とは絶対に合一できない「わたし」と「あの彼女」との差異というパラドックス―不可能性―を常に孕んでいるのである。
 もっとも本書の題名や紅い唇をあしらった装丁で、この本を恋愛論と思ってはいけない。基本的には言語哲学に基礎づけられたコミュニケーション論の書であるといえよう。しかし、決して平易とはいえない本書を読み終えたとき、読者は自らの人間関係と、それを取り巻く宇宙に、それまでとは違ったあり様を見出すことは請け合いである。

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