アニメと霊性(スピリチュアリティ)

 全国曹洞宗青年会の広報誌『そうせい』2005年11月号に寄稿したものです。私は決してアニメ・ヲタクでもないし、サブカル談義に饒舌な訳ではないのですが、なぜか、こうした原稿依頼が時々きます。もちろんアニメは、決して嫌いではなく、僕のものの考え方のある部分は、アニメに依拠していると言っても過言ではないのですが、、、、


■「フランダースの犬」の涙
 『読売新聞』2005年九月一日によると、「何か宗教を信じているか」というアンケートで「信じている」二三%に対し「信じていない」は七五%。「宗教は大切であると思うか」でも、「大切」三五%に対し「そうは思わない」六〇%だったという。確かに大学で宗教学関係の講義をしていると、学生は宗教に対して冷淡このうえない。彼ら/彼女らに言わせれば「宗教は心の弱い者の慰めや逃避」であり、マインドコントロールされた「誤った信念」であり、「非科学的な迷妄」ということなる。
 しかしこうした学生たちも、宗教的ななもの全てを否定している訳ではない。例えば私は講義の初めの方の回で「フランダースの犬」のラスト数十分を学生と見ることが多い。私も含め多くの学生はかつて見た時の感動を思い出し、教室はシーンとなる。ではその感動の涙はどこからわき出てくるのだろうか。放火の疑いをかけられて疲労と空腹から死に至ったネロが可哀想だからだろうか? 違うはずである。「フランダースの犬」の感動は、善なる魂が必ずや天国に召されるという確信に基づいているはずである。そこには魂の不死、死後の世界の存在、そして義と認められた者が救われるという世界観が共有されている。そうでなければ「フランダースの犬」は、単なる児童虐待の話にすぎない。「フランダースの犬」は明らかにキリスト教的世界観を背景にもっているが、こうした背景抜きでも学生は、このアニメに涙を流す。つまり宗教抜きの宗教性というものがあって、このアニメはそうした宗教性を体現しているのである。
■アニメと宗教性
 アニメは時として、宗教教団以上に宗教性を伝える媒体となりうる。だから宗教教団はわかりやすい布教の武器としてアニメを用いてきた。事実、宗教団体によって製作され、明確な宗教的な意図を持っている教団アニメや宗教者や聖典をモチーフとした宗教アニメは多数ある。オウム真理教の「超越神力」シリーズはビデオで幅広く布教に用いられ、幸福の科学の「ヘルメス 愛は風の如く」「太陽の法」「黄金の法」は東映系劇場で一般公開され、多くの観客動員を得たとされる。創価学会も関連団体のシナノ企画が教団史に関するアニメ「人間革命」13巻を製作しいているほか、池田大作名誉会長の創作童話をアニメ化し、その一部は地方局で放映されている。
 一方、アニメ・クリエータも自らの作品の主題なり世界なりに深まりと広がりを持たせるために、善と悪、運命、生と死などの宗教が扱ってきた主題を意識的、無意識的に援用してきた。例えば富野喜幸の「伝説巨神イデオン」は、異星人と人類との宇宙戦闘を描きながらも、人知を超えたイデオンの「無限力(むげんちから)」と「メシア」と呼ばれる胎児の無垢なる意志との関わりがテーマとなっていく。悪しき心をもった生命体は宇宙戦争で根絶やしにされつつも、その魂は浄化され、メシアの誕生の祝福にあずかるラストは、各文明に伝わる千年王国思想をも彷彿させる内容となっている。また「デビルマン」(テレビ放映版ではなく、原作のラストを膨らましたオリジナル・ビデオ「AMON デビルマン黙示録」)では、物語は人間の内的な悪魔性に焦点が当てられていく。これら「メシア」や「黙示録」という用語法からも制作者自身が宗教伝統を意識しているといっていい。
 さらに仏教に深い理解を示した手塚治虫の「火の鳥」シリーズ、新新宗教に分類されるGLAと関係のあった平井和正原作の「幻魔大戦」、荻野真原作の人気コミックのアニメ化「孔雀王」などは特定の教団とは関係なく制作されているが、人類に共有されている宗教伝統を背景とし、それが物語に奥行きをもらたしている。
■アニメと霊性(スピリチュアリティ)
 さらに宗教的な主題を、宗教教団や宗教伝統とも切り離した形でアニメは伝えようとする。こうした作品群を、ここではスピリチュアルなアニメと呼ぶこととしよう。スピリチュアリティとは、「自分の中や自分と他者との間で働いていると感じられる、自分を超えた何ものかとつながっている感覚(の質)」などと定義されているが、かかるアニメは、宗教教団や宗教伝統とは切り離された形で、人間性や自分探しを注視し、明確な世界観や人間観を提起する。
 人間性への注視でいうと、例えば「妖怪人間ベム」は人間になりたい希求とそこからかいま見る人間性を描いたという点で「ピノキオ」「鉄腕アトム」に連なり、これらの作品は特異なキャラクターを扱いながら、人間性という主題を秘めている。これと近接する主題として自分探しがあげられよう。「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイも、「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジも、どこか頼りなげで、「マジンガーZ」の兜甲児のような、それまでの巨大ロボ・シリーズの主人公のように苦難を乗り越え、ゴールに向かって成長するキャラクターとして設定されていない。むしろテクノロジーの高度化におけるアイデンティティの流動化という、自分探し自体が主題となっており、彼らの彷徨いは「銀河鉄道999」の星野鉄郎に通じている。
 人間性に思いを凝らす一方、明確な世界観を描くこともアニメは得意とする。前述のように「フランダースの犬」は、ある種の超越的な次元(天国や魂の救済)を前提としなければ、ネロの死は理解できない。「宇宙戦艦ヤマト」「風の谷のナウシカ」は世紀末における人類規模の救済の物語であるし、「アキラ」「GHOST IN THE SHELL〜攻殻機動隊〜」は近未来の新しい人間観を提起しているといっても間違いではない。また「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」のような宮崎駿アニメにはアニミスティックな世界観が前提とされ、そこに広範な共感を獲得している。
■スピリチュアル・アニメのこれから
 人類の文明の歴史において、多くの宗教が生まれ、滅びていった。しかしスピリチュアリティは表現や担い手を変えつつも持続してきたと私は見ている。現代人の宗教に対する嫌悪感や無関心とても、それは現存の宗教教団に向けられているもので、スピリチュアリティに対してのものではない。先のアンケートでは「神や仏にすがりたいと思ったことがある」は五四%に達し、「ない」四四%を上回った。宗教を「信じていない」人の中でも、「すがりたい」は四七%だった。そうした現代人が単に宗教教団に向かわないだけのことである。宗教に無関心な現代人は、宗教教団には冷淡でも、例えば宮崎駿のスピリチュアルなアニメは否定しないだろう。
 スピリチュアルなアニメのすそ野は広く、一般のアニメと分かつ基準も難しい。しかし宗教性が教団の枠を超えて、サブカルチャーに横溢する現在、アニメが宗教団体の代替物になるとまではいわないが、スピリチュアルなアニメが我々の宗教性を語る上で重要な位置を占めるようになることは言うまでもない。

2 comments

  1. 眼鏡フェチ より:

    これからも頑張ってくださいね!

  2. 眼鏡フェチ より:

    これからも頑張ってくださいね!

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