悪の自覚

2001年11月29日〜30日に築地本願寺で、(財)全国青少年教化協議会のフォーラム「少年の犯罪と仏教―子どもたちの“痛み”を聞く―」 に関わりました。その直後に書いた文章です。当日は、元「非行少年」との鼎談があり、「なぜ非行はいけないんですか」と逆に問われ、それに端を発したエッセーになっています。
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■ぎくりとしたこと
 「なんで非行はいけないんですか」そんなやりとりが、今回のフォーラムの最中にあったと思う。直接、自分に問いかけられた訳ではないが、もし皆の見ている前で、この言葉を投げかけられたらと思うと冷や汗がでる。自分なら何と答えるだろうか。
 似たような問いは、ここ何年か「大人たち」を悩ませ続けてきた。一つは「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」だ。多くは援助交際の問題をめぐって、当の女の子たちから発せられた言葉だ。自分の下着を売って、身体を売って、それを欲しい大人が買う。一体、誰に迷惑をかけているか、という開き直りである。親も教師もそれに対して有効な回答を見出せないままである。
 もう一つは「なぜ人を殺してはいけないのか」である。ことの発端は神戸児童連続殺人事件を、えぐって、あるニュース番組で若者がこの問いを発し、居並ぶ「識者」の誰一人として答えられなかったというエピソードがある。同様のタイトルを冠した書籍が発行され、雑誌の特集にもなり、それらを見たが、やはり「これだ」と膝を叩くような答えはなかったように思う。


■なぜこうし問いが発せられるのか
 幸か不幸か、私たちは「自由」で、「豊か」な時代に生をうけた。何をやるのも自分で責任がとれればいい訳で、とりわけ個人の内面性(思想・信条というよりは感情・感性など)は、それが目に見えないだけに、さまざまに形で大切に守られている。行動原理は快・不快や好き嫌いであり、かつてのように伝統やイデオロギー、周りの目を気にする必要はない。「○○のために生きる」(○○に当てはまるものは、国家・思想・社会・会社、もしかすると家族も入るかもしれない)ということがなくなり、「自分のために生きる」が当たり前となりつつある。
 しかし同時に、こうした風潮は、それまでその社会が自明のものとしてきたことを成り立たせなくしてしまった。価値観は人それぞれであるから、こういう社会がいいとか、こういう人間が素晴らしいという模範像が焦点を結ばなくなってしまった。「人を殺す」ということですら例外はない。「命の尊厳」ということを口にすれば、何人もの人々が飢餓や理不尽な暴力で死んでいくことをテレビや新聞で「知っている」子供たちに、「綺麗事を言ってやがる。偉そうに言うお前はどうなんだ」と、せせら笑われるのが関の山であろう。
■一番大切なもの
 「生命の尊厳」「人権」「平和」「平等」・・・、かつては絶対的な価値がおかれた自明の事柄が、今や顧みられなくなってしまった。もちろんこうした諸価値が貴く追求されていた時代に比べ、ある程度、これらが達成されてしまった、幸せな状況にあるということもいえる。では今は何が貴いのだろう。
 それは前述の通り「私」である。試しに「あなたは何をより所に生きているの」「何を基準に行動しているの」と二〇歳前後の若者に聞いてみればいい。返ってくる答は「自分」であり、「感情」「感性」「感覚」「好き嫌い」であろう。「人間は社会的存在である」とどっかで習ったことを覚えている少し気が利いた若者なら、「自分の環境」「これまでの経験」となるかもしれない。
 このような状況では「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」のは当たり前である。自分の環境と言っても、せいぜい念頭におかれているのは、友達、親、先生くらいのもので、「親バレ」しなければ、「友達に知られなければ」何をしてもいいのだ。この論理をひっくりかえせば、クスリをやっても、人をぶん殴っても、自分で責任をとれれば、それでいいのだ。刑務所に入る覚悟があれば、返り討ちにあって殺されてもよければ、人を殺してもいい。実際、フォーラムの最中もそうした発言があった。覚悟なんてものがなくても、自分がどうなっても構わなければ、何をしてもいいのである。
■もう一度、では、何と答えるか
 しかし本当にそうだろうか。私たちは悪事をはたらいていないのだろうか。人を殺していないのだろうか。
 少し南北問題に目をやれば、私たちの繁栄や豊かな生活が他の国の犠牲の上に成り立っていることはすぐにわかる。また、先ほどの飢餓や暴力によって命を失っている人々のニュースに憤りを感じたり、悲しんだりしても、次のニュースになれば忘れてしまう。その命が奪われている状況に私たちは絶対に荷担していないと言えるだろうか。
 つまり私たちは本来、人の犠牲の上に、人の命の食いつぶしながら生きながらえている存在なのである。そこでは「自己責任」などということは、とうてい適わない、責任のとれない悪を犯している存在なのである。この悪の自覚を、「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」「なぜ人を殺してはいけないのか」とうそぶく若者にどう伝えることができるか。
 仏教は、とりわけ日本仏教の祖師たちは、こうした悪の自覚を見つめてきたのではないだろうか。しかし仏教の叡智にすがるとともに、忘れてはならないことは、私の三九年の生を傾けなければ、悪を自覚した己を開示しなければ、その智慧の言葉も若者には伝わらないということである。二四時間隅々まで明るく照らし出され、悪の闇が消えてしまったかのように見える現代だからこそ、この悪の自覚が必要なのである。

3 comments

  1. なぜ人を殺してはいかないのか

    なぜ人を殺してはいかないのかといえば、人より尊いもの無いからです。
    なぜ人より尊いもの無いのかといえば、人は宇宙とか大生命とか神仏とか愛などと呼ばれる何かが、魂の喜びと幸せを表現するための芸術素材…

  2. shimpei-ohgaki より:

    人間が殺人を犯してはいけない理由を考えるためにまず、人間がなぜ倫理を持つのかを考える必要があると感じる。
    (わかりやすく説明したいので、少々長くなることをご理解いただきたい。)
    倫理は未来のためにある。人は未来のために倫理を持つ。
    未来の世界を居心地良くするために存在する。
    よく「人を信じる人は豊かになる。」という話を聞くが、果たしてこれは本当であろうか??
    人を信じる人ほど騙されやすいのは当然である。
    では、利益に繋がらないのか…?
    それは否であると言いたい。
    人を信じる人は人に信じられているという感覚を持てるだろう。
    同様に人を疑う人は人に疑われているという感覚を持ちやすいように思う。
    盗みをしている人がいたとして、その人は周囲の人間が自分のものを盗もうとしていると感じることであろう。
    人を殺し続けた修羅の人がいたとして、その人は周囲が自分の命を狙っているに違いないという確信を持つであろう。
    人を信じて与え続ける人がいたとして、その人は周囲の人が自分に与えてくれることを信じるであろう。
    人を幸せにするのは、その人の感じ方であるとする私の立場から、この感覚を持てることが人を幸せにすると言いたい。
    そして、その感覚を作る上で現実が重要であり、現実を危険から守るために倫理が重要になる。
    倫理を失う人は、安心できない。疑いだして、永遠に続くサイクルに落ちる。そして、幸せを失うだろう。
    かのアルバートアインシュタインはこういった。
    「私は未来のことは考えない。もうすぐそこまで来ているから。」
    私は無学であり、アインシュタインがどのような経緯、意味でこの言葉を発したかを知らない。
    (偉そうに言ってるのにごめんなさい。)
    しかし、アインシュタインが、未来という言葉に遠い存在というニュアンスを感じ取り、すぐそこという表現を選んだと感じている。
    つまり、未来とは今の次にすぎず、今と未来は連続性の中にあるという感覚を持っていたのだろう。
    倫理を守らないことのツケは必ず次の瞬間から始まる。
    私はできるだけ長く幸福に生きたい。
    生命の危険を感じずに、さまざまなことを探求したいと思う。その快楽の中にいたい。
    今の連続性の中にある未来を守るために、私は今、倫理を大切にしたい。
    そのうちの一つ、殺人に関する倫理を守る。
    それは、自分のためのものである。
    残念ながら、生きることはどうだっていいから人を殺したいという未来を否定した人間に対して、私が言えることは、「お願いだから殺さないでくれ」しかない。
    私は人が好きなので生を放棄しないでほしいとも思う。
    人は生きているだけで幸せになれる。そのような本能があるようだ。
    これを伝える以上のことはできない。
    とりあえず、生きたいから殺さないでね。

  3. そらねこ より:

    横レス、失礼致します。
    >人を信じる人は豊かになる。
    「信じる」とは少しずれるかもしれませんが、
    正直であることが結果として良いことが
    社会心理学の山岸先生が実験的に証明しています。
    良かったら御一読下さいませ。
    googleで「信頼の時代を語る。」と検索して
    一番最初に出た糸井さんとの対談をご覧下さい。

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