映画評にみる死と暴力―北野武映画をめぐって―

→2003年8月、日韓宗教者研究フォーラムでの発表原稿です。短縮版を9月の日本宗教学会で発表して、脚本家の内舘牧子さん(当時・東北大学大学院生)から「映画評や読者評をまともに扱うのは甘い」って叱られましたっけ、、、
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1、問題の所在
(1)本報告の目的
 本報告の目的は、北野武が監督した映画に関する『キネマ旬報』(月2回刊)の読者評を対象に、現代人の死生観の一端を明らかにするものである。日本ではよく知られていることだが、1986年に自身のゴシップ報道に対する報復として敢行されたフライデー襲撃事件や、1994年8月深夜の交通事故による瀕死の重傷など、お笑いタレントであり映画監督の北野武には、常に「暴力」「死」のイメージがつきまとっている。同時に「その男、凶暴につき」「ソナチネ」「キッズ・リターン」「HANA-BI」など、彼の作品も「暴力」と「死」がダイレクトに描かれている。こうした作風から北野映画そのものに、彼の人間観なり死生観なりを探ろうとする論考は、これまでも少なくない。
 しかし本報告では、北野武という卓越した表現者の死生観ではなく、彼の作品に言寄せる観客の示す死生観の方に、より多くの関心を寄せている。それはこの第三部会のテーマ「日常生活の中の宗教性―大衆文化と若者の死生観―」を考察するうえでは、大衆文化の送り手(北野武)よりも、その消費者(観客)に焦点をあてるべきであると考えるからである。しかも後述するように、北野映画を観る者は、そこになにがしかの彼の生―なかんずく死生観を読みとろうとし、さらには自らの死生観をも吐露しようとする。死生観をテーマに北野映画評を選んだのは、北野映画について語るという行為自体、観客が自らを語りやすい、語らねばならない構造を有するからである。
 そのため、観客のまとまった映画評を収集するうえでの媒体として『キネマ旬報』の読者欄に注目することとした。『キネマ旬報』は総合的な映画雑誌であるが、日本において洋画と同じ紙幅を割くメジャーな映画雑誌としては本誌が筆頭にあげられる。
 以上のように本報告は、現代人の死生観の一端を明らかにするために、死の香りがつきまとう北野映画に関する観客の投書を整理・考察するものである。なお、本部会のテーマにある「若者」に関しては、十分に意識することができず、「大衆文化と現代人の死生観」という内容となっている点をご容赦いただきたい。
(2)北野ワールド
 北野武が日本映画界において中心的人物の一人であることは疑いもない。漫才ブームを牽引したタレントの映画監督転身に始まり、後述するような独特な作風、1995年のBBCによる「世界の映画100本」の入選(「ソネチネ」)、1997年のヴェネチア映画祭金獅子賞受賞(「HANA-BI」)、カンヌ映画祭正式出品(「キッズ」「菊次郎」*1)、ハリウッド進出など、ほぼ一年に一本の割合で作成される作品は常に高い話題性を有している。また、猿渡学(2002:1-16)が「笑い」「暴力」「沈黙」「死」といったキーワードから(同様に盛田隆二(1998:60)が「暴力」「失語」「死」「笑い」を、松浦寿輝(1995:189)が「暴力」「聾唖」「魯鈍」「待機」「遊戯」あげて)北野映画を分析したように、死と暴力といった主題やタレントとしての饒舌さを反転させたかのような作品の寡黙さが、北野映画を形成し、それは日本のマスコミ界において「北野ワールド」とも呼ばれている。また、青の色彩が際立つところから、「キタノ・ブルー」という表現まである。
 一方、藤崎康(1993:7-9)は映画を見る者の驚きを惹起し、見慣れた映画的ルーティンから我々を解き放つ力を「映画の強度」と呼び、彼が指摘する「説明の排除、即物的なアクション描写、抑制された台詞まわし、無表情な顔、がらんとした被装飾的空間」などの北野映画の強度は、今日の日本映画界にあって特異な位置を占めていると言っていい。同時に上記のような諸特徴は塚本晋也、周防正行、黒沢清、三池崇史らにも看取でき、ある種の現代日本映画の同時代性を形作っている。
 上記のように「笑い」「暴力」「死」「沈黙」といった諸特徴をもつ北野映画であるが、正確に言うと、それは「その男」から「ソナチネ」までの間に特に言えることかもしれない。樫村愛子が指摘するように、これらの作品は最終的には「死」へと向かう北野映画の第一期を形成し、「キッズ」以降は、そこになにがしかの生の模索や「生の世界構築ための猶予―移行空間」(樫村2003:151)が主題化されていると見てよいだろう。いずれにせよ作品論は本報告の目的ではないので、北野映画には今のところ、第一期と第二期とが指摘され、「キッズ」がその転機となっていることだけを留意したい。
2、『キネマ旬報』における北野映画評
 『キネマ旬報』には、いくつかの読者評欄がある。一つは「読者の映画評」であり、これは字数800字から900字で、毎号、100前後から200前後の映画評が寄せられ、選抜によって数点が掲載されている。もう一つは「キネ旬ロビイ」で、ここには100字から数百字程度の短評が10点ほど掲載される。北野映画は全作品が読者評の対象となっており、その件数は下の通りである。
▲上映年月  ▲タイトル ▲英文タイトル ▲読者評数
1989年8月 「その男、凶暴につき」 Violent Cop  7
1990年9月 「3−4x10月」 Boiling Point  2
1991年10月 「あの夏、いちばん静かな海。」 A Scene at the Sea  3
1993年6月 「ソナチネ」 Sonatine  1
1995年2月 「みんな〜やってるか!」 Getting Any?  2
1996月7月 「キッズ・リターン」 Kids Return  3
1998年1月 「HANA-BI」 HANA-BI  3
1999年6月 「菊次郎の夏」 Kikujiro  1
2001年1月 「BROTHER」 BROTHER  3
2002年10月 「Dolls[ドールズ]」 Dolls  3
ここで北野映画に対する読者評の特筆すべき点をあげてみよう。
(1)賛否両論
 まず、北野映画は賛否が分かれる。特に「その男」では、「キネ旬ロビイ」で賛否の小特集があり、「ダントツのベスト1」という絶賛から「大絶賛に疑問」を呈するものまで4本の読者評が見られる。その後の「3−4x」「あの夏」などでは、賛否両論はあまり見られず、おおむね高い賞賛を得ている。しかし「BROTHER」になって再び賛否両論となる。「北野作品の切れ味鋭い暴力描写には定評があり、我々はそれに魅了されてきた。だが、その安売りは幻滅を誘う。」という北野映画には必ずつきまとう違和感が改めて率直に語られ、「凡庸なアクション映画」と締めくくられている(「BROTHER」01年4月下*1)。その中でも後述するように感情移入しづらい作品を「北野武氏と〔彼の弟子集団である〕たけし軍団の関係を連想させて」内在的に理解することで、違和感を拭い去ろうとする読者評も見られる。
(2)転機となった「キッズ」
 「キッズ」に関する読者評は3点であるが、前述のように瀕死の事故からの復帰後に撮ったという北野武の転機を踏まえ、「死の観念に取りつかれ、それ死ね、それ死ねと、死の淵にまでいってしまった北野武が、生きる事の困難さを描いた最新作で、現世へと帰って来た。(略)これまでの北野武が、死と無意識に向かい合っていたのだとしたら、ここでは、生と意識して向かい合っている、といっていいだろう。」(96年12月上)、「人生はリターンマッチだ。」(97年2月上)、「久しぶりに元気の出る日本映画だ。暗い話をふきとばすような明るい画面がいい。」(97年9月下)といった言葉が見られる。こうした監督の実生活と関連づけて作品を評する傾向も次に述べるように、北野映画評には特徴的である。
(3)北野武の生とのすり合わせ
 これまで述べた賛否両論も「キッズ」に見られる作風転機への賞賛も、北野自身の生のあり方と作品を重ねあわせて観客が映画を評していることと結びついている。「我々とはものを見据える視点が違うのだ。というより、生きてきた世界が違うのだとしか言いようのない確かな衝撃があった。」(「3−4x」90年11月下)、「下積み芸人、テレビの売れっ子、映画監督、交通事故、そして世界の巨匠という北野監督自身の波乱に富んだ半生を思わせるストーリー」(「菊次郎」99年9月下)という評価は、それを如実に示している。
 監督の生のあり方に従ってその作品を観るということは当たり前といえば、当たり前だが、小津安二郎の職人気質、溝口健二の耽美性、晩年の黒澤明の美意識など、一部の監督作品を除いて、そうした映画評は主流ではなかった。しかもそうした評価も晩年や没後の研究に拠るところが大であり、処女作から、監督自身の生とすり合わせるように観客が映画を観ることは稀なのではないだろうか。もっとも自叙伝の刊行『たけしくん、ハイ!』とそのテレビドラマ化(NHK、1985年・86年)やワイドショーなどで露出度の高い実兄の存在など、北野武の実生活を私たちはあまりに知りすぎているということは差し引いて考えなくてはいけないが。
 いずれにせよ、観客が言うように一連の作品は「多分監督自身が抱えている死の衝動を、映像化して発散させているのだろうか。(略)自己を吐露した作家性の強い作品」(「BROTHER」01年4月下)であり、映画監督・北野武の登場は「個人主義作家の誕生」(「その男」89年11月上)として記憶に留められよう。
3、死と暴力
 ここでは死と暴力をめぐる北野映画に対する読者評を4つの観点から見ていこう。
(1)死と暴力の受容・超克
 まず第一に注目すべきは、北野映画にふんだんに描かれる死と暴力に対する拒絶感が、読者評にはほとんど見られないことである。尾辻克彦(「場内でのおタバコ」67、『キネマ旬報』89年10月下)によれば「その男」上映の際には「子供に見せるな」キャンペーンがあったという。青少年にも大きな影響力を持つ北野武の映画が極めて暴力的であることに対する反発は当然予測されることである。また、はからずも北野武も出演した「バトル・ロワイヤル」(深作欣二監督、2000年10月上映)の上映禁止運動にも、同質の抗議を見ることができる。
 しかし読者評には、こうしたキャンペーンを十分に意識し、「暴力は人間の内部を明かす正直な表現手段だ。この作品は単に暴力を肯定しているのではなく、誰にでもある最終的な感情の到達点を、実に在りの儘の我々を通して描いているのだ。」(「その男」89年11月上)と、暴力や死への衝動にこそ、人間の本質が示されるという投書が見られる。同様に「どんなに出来がよくても暴力肯定につながるような映画は、絶対に認めないという立場で映画をみてきました。(略)〔しかし〕凄惨な暴力を突き抜けたその果てに見せてくれた岸本さんと武さんの無言のラブシーンに泣きました。」(「HANA-BI」99年5月上)と、過剰なる死や暴力の描写の背景にある境地を北野映画に見ている。
 一方、死と暴力を描く北野映画を、ある種の文明批評として、例えば「己の凶暴さに無自覚な現代人。無自覚であるからこそ己が他人に対して凶暴であるんだということに気がつかず、相手を傷つけていく。(略)ある意味で現代人の一側面を映しだした鏡であるといえる。」(「その男」89年10月上)という投書もある。
(2)パラドキシカルな暴力観
 過剰なる死や暴力の描写の背景にある境地を見出そうとする観客は、同時にパラドキシカルな暴力観を述べる。例えば、「あの夏」に、「しっかりとバイオレンスは生きている。しかしあくまでも静かなのである。レイプを待っているからなのか、それは煽情的でさえある。」(「あの夏」91年12月下)と述べ、「Dolls」にも「これまで愛情のこもった「暴力」を描いてきた北野監督、(略)今回の「暴力」から悲しき優しさを感じる。」(02年12月下)という。静かなバイオレンスや愛情のこもった暴力という形容矛盾は興味深い。観客が生理的には暴力にまみれた北野映画を受け入れられないにもかかわらず、暴力を経たうえで築かれるある境地を受容し、その死や暴力について語ろうとする際に、必然的にかかるパラドキシカルな表現方法をとると考えてよいだろう。
(3)日本的死生観の発見
 第三に観客が北野映画に伝統的かつ日本的死生観を見出そうとしている点に注目したい。これに関しては、「人形浄瑠璃の心中物が持つ美学の中には、自分達の存在のみが至上であるなどという傲慢さはない。」(「HANA-BI」98年3月下)と、すでに人形浄瑠璃に題材を得た次回作「Dolls」を先取りするような読者評もある。
 また読者評ではなく、批評家評であるが、合津直枝は「その男」から「ソナチネ」までの4作品で「生か死かという二元論の欧米で、〈生きるということは死ぬこと〉〈死ぬことは生きること〉というアジア特有の、生と死をひとつのサークルとしてとらえる死生観を示し、見事に受け入れられたことに敬服する。」(「菊次郎」99年6月上)とし、黒田邦雄は「サムライ」を撮った「メルヴィルは、武士道にそう若い殺し屋をパリの街に放り込んで、いかに死ぬかと言う〈葉隠〉ふう死の美学を演じさせたのだが、北野は日本の義理人情の世界に生きる中年やくざをロスに放り込み、かっこよく死ねるまでを追っているのだ。」(「BROTHER」01年4月上)という。
(4)先鋭化された諦観
 最後に述べなければいけないのは、読者評で語られる諦観である。それは「映画の中でたけしの〔演ずる〕刑事は子を失い、妻は不治の病で死が近い。大杉漣の刑事は、職務による負傷で下半身不随になった時、妻子が見限って去ってしまう。中年以降の孤独にこれほど劇的なことはないにせよ、大なり小なり行き着く先は同じなのだ。」(「HANA-BI」98年4月下)にあらわされている孤独な死への諦めである。同様の諦観は、批評家評になるが、「メルヴィルも北野も、描きたいのは孤立無援の情況におかれた男が、死への花道へと突っ走っていく孤独感とその恍惚感なのだ。」(「ブラザー」黒田邦雄、01年4月上)にも示されている。
 こうした諦観は極めて新しいものと言えよう。例えば学生に「東京物語」(小津安二郎監督、1953年)を見せてゼミを運営してきた大村英昭は「すべての小津作品には、そこに流れる共通した死生観」があるといい、それを「堂々の諦観」と名付けている。「東京物語」は息子・娘に邪険にされながら東京見物をした老夫婦の話だが、ラストは妻に先立たれた老父が一人海を見詰めているシーンで終わる。そこには悲しみを超えた死の受容「堂々の諦観」があり、これを見た学生も「何か、よくわかりませんが、心にびんびん来るものがあります」「やはり、海のシンボリズムってすごいですねェ」という発言を引き出す凄みすらある(大村1996:205-211)。
 「堂々の諦観」は、死んでも弔う家族なり、地域なりがあって、先祖のもとに帰るという安定感を背景としていると考えられ、40年以上経った90年代の学生でも辛うじてその感覚を共有できたのであろう。しかし北野映画評で示された諦観は、孤独で、個人化された死への諦めが先鋭化されており、明らかに「堂々の諦観」と異なる質を有していることは見逃せない。
4、まとめ
 本報告では、冒頭、北野映画を観る者は、そこになにがしかの彼の生―なかんずく死生観を読みとろうとし、さらには自らの死生観をも吐露しようとすると述べた。こうした思わず観客の本音が語られた箇所として「偽善に隠された暴力は我々の日常に氾濫している。」(「その男」89年11月上)や「本物の殺人は惨たらしいが、ウソの殺人は楽しい。」(「BROTHER」01年4月下)などは、その典型といえよう。北野映画に仮託したとはいえ、誤解を招きやすい言葉を、北野映画の観客は口にせざるを得ない。同様の語りに「人生は限りなく回る円環の様なものだ。」(「キッズ」97年2月上)や「配偶者はいずれ一方が先に死ぬ。待つのは絶対の孤独への回帰だ。」(「HANA-BI」98年4月下)などがある。こうした死生観も、北野映画だからこそ、語られるモノローグとは言えないだろうか。
 これまでの議論をまとめるならば、『キネマ旬報』に投降された北野映画評から、我々は次のような現代人の死生観の一端を知り得た。
 第一に北野映画は死と暴力に彩られているが、それを観る者は死や暴力を嫌悪するより、むしろそれを越えた地平―換言するならば死や暴力でしか表現できない何かに思いを凝らしている。死や暴力への忌避にも通底するヒステリックな「子供に見せるな」的アレルギーはそこにはなく、むしろ死や暴力への向き合いが生まれている。しかしながら、観客は自らの死や暴力をめぐる観念を表明しようと投書の筆をとると、静かなバイオレンスや愛情のこもった暴力といったパラドキシカルで形容矛盾の言葉を紡ぎ出すこととなる。これは死や暴力をめぐる観念の表明が論理的に破綻していることを意味するものではない。そこにはパラドキシカルで形容矛盾な―凡庸な表現が許されればアンヴィバレントな―観念が横たわっていると見るべきであろう。
 第二に北野映画を観る者は、そこに日本的な死生観を探ろうとする。それは死と生を明確に分けるそれではく、死と生が隣り合わせになっている死生観といえる。だがそれより重要なことは、伝統的な日本的死生観とともに、もはや伝統では括れない新たな死生観が観客によって示されている点である。それは先祖や家族や地域に見守られているであろうという伝統的な他界観を背景とした「堂々の諦観」とは無関係な、個人的で孤独な死生観による「先鋭化された諦観」なのである。かかる諦めの念を北野映画は観客から引き出し、意識の俎上に乗せ、表明させる力(暴力性と魅力)を有している。
 以上の点は確かに北野映画の作品論でも明らかになることかもしれない。しかしながら北野映画という映像とならんで、観客によって言語化された一群の投書を得て、私たちは北野映画が指し示す現代人の死生観の広がりを整理できたのではないだろうか。
 なお、1997年10月の第二回釜山国際映画界で北野武の通訳をつとめた梁時栄(1998:55)によれば、「HANA-BI」の人気は、チケット2000枚が映画祭の始まる1週間前に完売となり、急遽5000人収容の野外劇場での上映に変更となるほどであったという。北野映画の韓国における評価を知ることによって、東アジアで同時代を生きる私たちの死生観のより明確な輪郭を定められるものと考えている。

*1以下の北野映画のタイトルは、最初の3、4文字を用いて略していく(アルファベットによるタイトルは、そのまま使用)。
*2『キネマ旬報』の映画評からの引用に関する出典は、作品名/発行年月/下旬号か上旬号を略して明記。
参考文献
藤崎康1993「凶器としてのフィルム―北野武=ビートたけしの三本の映画をめぐって」(映画論ノート?)『慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学』16
松浦寿輝1995『映画1+1』筑摩書房
大村英昭1996『宗教のこれから』有斐閣
梁時栄1998「その監督、日本映画につき」『ユリイカ』400
盛田隆二1998「「暴力」「失語」「死」「笑い」―北野武自身の四つの狂気がぶちこまれた『3−4x10月』 『フィルムメーカーズ 2 北野武』(キネマ旬報1247)
猿渡学2002「北野武/ビートたけしの世界―『その男、凶暴につき』から『HANA-BI』へ」『東北工業大学紀要 ? 人文社会科学編』22
樫村愛子2003「映画表現に見る現代社会の危機―ノワールとポストコロニアル(2)」『文明21』10

7 comments

  1. 猿渡@東北工業大学です より:

    はじめまして
    猿渡@東北工業大学です(本人です)。
    拙稿を引用いただき光栄です。
    このページはずいぶん前から拝見していたのですがコメントさせていただくのは初めてです。
    最近、Dollsに関しても紀要論文に書きました。その中では触れることは出来なかったのですが、三つの男女の物語の重なり合い方が問題にならないかと考えております。そこでキーとなるのはホーキング青山なのではないかと考えております。私自身ももう少し検討してからでないと、詳細は申し上げられないのですが。
    「もののけ姫」の「隔離された者たち」と同様に物語の仲で重要な役割があるような気がしております。
    また寄らせていただきます。とりとめもなく、かつまとまりもないコメントで申し訳ありません。

  2. 弓山達也 より:

    ご本人からの書き込みありがとうございました。
    猿渡さんは脚本家でもいらっしゃるのですよね。
    健筆、期待しております!

  3. 猿渡@東北工業大学です より:

    実は同姓同名なのですよ。
    親戚からも大学の仕事のほかに副業やってるの?と言われるし、友人からも同じようなメールをよくもらいます。
    同姓同名のご本人にお会いしたいものです。

  4. 満園 功 より:

    始めまして、今年3月まで一橋大学大学院
    鵜飼哲研究室に属し、今は大学院を
    出て、今までとは全く関係のない
    メディカル系の会社で会社員を
    している29歳の男性です。会社員に
    はなりましたが、3月までの自分は
    勿論残っています。臨床心理学で
    修士論文を書き、また精神科医に
    いつかはなりたいと思っています。
    「服従の心理」「暴力の心理」に
    精神医学を志すものとして興味を
    持っています。昨日斉藤貴男さんの
    「安心のファシズム」という本を
    一気に読了し、その中で著者が
    『バトルロワイヤル』が保守系
    政治家や「良識派」の人から
    険しい目つきで見られたのは、
    あの映画の中に逆に彼らが隠蔽した
    がっているものが如実に顕れて
    いるからだ、という記述に
    有意なものを感じ、今日「
    暴力と死」という言葉で検索し
    貴サイトに訪れた次第であります。
    貴サイトもまた非常に私にとって
    有意なものを含んでいるようです。
    私は今まで北野武の映画は見なかったのですが、有名な俳優、女優
    (個人的に菅野美穂さん、そして
    何より西島秀俊さんのファンである
    ということもありますが)が
    出ていることから、またあの映画が
    、医学部生でもない文科系の
    大学院生の私では精神疾患診断マニュアル
    DSM−?で何と分類されるのかは分かりませんが、「ショック性健忘」「心理学的退行」「統合失調症」を微かになぞって
    いることから何度も見、強く興味を
    引かれていたdollsに貴サイトが
    触れられている事に知的喜びを
    感じております。また浅薄な
    「文学的ロマン主義」の批判を
    感受する上で申し上げると、
    dollsが「狂気の最後で訪れる
    一瞬の愛」をも包含しているようで
    、愛読しているアルチュセールの
    「L’avenir dure longtemps」
    中でも彼が妻を絞殺し、サンタンヌ
    の病院を退院した後、ある種の
    退行とともに語った美しい一節
    「僕は67歳、でも今に至って
    ようやく感じるのだ、自分から
    愛することを知らなかった為に
    愛されることもなかったから
    僕は一度も若さというものを
    持ったことがなかったけれど
    、この年になって僕はかつてなく
    自分が若いと感じるのだ、そう
    遠くない将来に全てが終わって
    しまうにしても・・・」(丹生谷
    貴志訳)を髣髴とさせるので
    dolls以来北野武には関心を
    抱いております。
    およそアカデミズムを奉じて
    いる物とは思えない要領を
    得ない、主語述語さえ整っていない
    拙文深謝致します。またコメントしても
    よろしいでしょうか?

  5. ブログマスターになりたいです。

  6. おっぱい より:

    本当の爆乳体験してみてください

  7. セックス より:

    ブログを見させていただきました

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