御会式歴一年―万灯練供養の内と外

→1998年から始めた御会式万灯練供養の調査。学生と2冊の報告書を出しました。これは1999年発行の『御会式新聞』に掲載されたエッセーです。
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 池袋・目白に住みはじめて六年になるが、初めて御会式の練供養の見たのは一昨年のことだったと思う。かなり遅い時間にもの凄い太鼓の音響に出くわし、ずいぶんと驚いたのを覚えている。大学で宗教を研究している関係上、大規模な行事や鐘・太鼓にはそう驚かないつもりだったが、正直な話、度肝を抜かされた。同時に「何とかならないものか」という思いがふつふつとわきあがってきた。
 「何とかならないものか」という思いは複雑で、その時、自分では十分に整理できなかった。現代宗教を研究することが仕事だから、この都市祭礼(我々の業界では雑司ヶ谷の御会式をこう呼ぶ)を調査したいという欲求が生じても不思議ではない。だが、気持ちはもっと違ったところにあった。それは一言でいうと「この列に入って一緒に太鼓を叩きたい」という、研究は二の次で、もっと単純で、自分のからだの内側からこみ上げてくる気持ちだった。
 思えば団地で生まれ育ち、会社の寮やマンション、そして現在の公団住宅と、私はこれまで地域社会とはあまり関係のない生活をおくってきた。そうしたこともあって、町内会やましてや講社の活動には全く縁がなかった。だから憧れもあったのかもしれない。御会式に初めて触れてから一ヶ月後に大学に提出する次年度講義の題名に「祭り意味と役割」と書くのに何のためらいもなかった。
 とはいうものの、何かアテがあった訳ではない。いたずらに時間が過ぎていったが、昨年、九月に意を決して、まずは法明寺にご相談にうかがい、御会式連合会を紹介していただいた。さらに東部睦会に随行することをお許しいただき、まずは万灯作りとなった。こうして、はからずも御会式を内側から拝見する機会を得ることとなった。(ご高配を賜りました皆様には、この紙面をお借りして心よりお礼お礼申しあげます。)
 さらに先の「祭りの意味と役割」の講義の受講生二〇名ほどを、歴史を調べる班、通行量をカウントする班、境内の出店マップを作成する班、法明寺の仏教儀礼を観察する班、そして東部睦会の練供養に随行する班に分けて調査を実施した。詳細は六〇頁ほどの小冊子にまとめた講義報告書に譲るとして、通行量をチェックしていた学生は練供養をこう評している。
「万灯が前の方に流れているというよりは、まるで台風のように他人を巻き込みながら、少しずつ動いているといった感じである。」
「万灯の熱気が混沌とした非日常的な雰囲気を作り出し、それに突き動かされる形で人が流れていく。」
普段はドライな現代っ子たちが、万灯によって熱くなっている様がうかがえる。特に東部睦班に随行した学生は強いショックを受けたようで、彼らの報告には「達成感」「誰かれない連帯感」「終始圧倒されるばかり」という文言が踊っている。
 彼らもまた私と同様、地域社会とのつながりが希薄な人種である。大学では大人数でなにかをやるよりも、数名でつるんでいる方が性に合っているはずである。このような学生にとって、御会式は大きな衝撃だったようである。中には太鼓の音に居ても立ってもいられなくなって、境内の出店マップ作りを早々に済まして、東部睦会に合流する者もいた。後日、新講社の藍鼓の練習会に出た学生もいた。教室では見ることのできない学生の姿がそこにはあった。
 もっとも私自身も学生とそう大差ないかもしれないが、この間わかったこととわからなかったことを整理してみたい。第一に練供養を通して伝統的な地域社会の結集の原点に、この祭礼があることが理解できた。このようなことは私が専攻している宗教社会学では、もう百年も前から言われていることなのだが、それを実地に知り得たことは大きな収穫だった。そしてそこで太鼓のリズムや焼きそばのにおいや万灯のイルミネーションなど、五感がどう動員されているのか、今後考えていきたいと思っている。
 第二にそこでの宗教の役割に関しては今後の検討が必要なようだ。聞いてみる限り、この祭礼が日蓮宗宗祖の命日にちなんで行われているという意識はそう高くない。だが、こうした無自覚の中にこそ日本人の宗教性があることも指摘されてきた。例えば初詣や墓参はあまり宗教的と受け取られないが、端から見れば実に宗教的な行為である。この祭礼を通して、こうした日本人の宗教性の特徴が浮かび上がってくるものと考えている。
 第三に、これは大きな課題なのだが、この祭礼を私がどのように「書く」かである。こうした一つの集団の内部に入って調査する手法のことを参与観察と呼んでいる。先の学生たちのように熱気に身をまかせながらも、どこかに醒めた視点をもって周囲をうかがっている。だが、醒めた視点では御会式の熱気は十分にわからない。特に文章にして伝えようとすると陳腐なものになってしまう。この内なる熱気と、外からの醒めた視点をどう橋渡しするかということが、今の私に課せられているものである。
 今年も御会式の季節がやってきた。去年は練供養の全体をとらえるためにも、参加者や出店や通行人を数えることに躍起になった私たちであるが、今年はじっくり関係者のお話を聞いてみたいとも思っている。(「大正大学」の黄色い腕章を見たらよろしくお願いいたします。)昨年は着なかった半纏も注文した。「今年も参加します」と昨年の受講者から電話があった。私たちの御会式歴二年目が始まる。

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