講義で苦悩

「講義で感動」の次の日にそれはおきた。
詳しくは述べ(たくも)ないが、自らの教育力不足を痛感した。
90分の講義で学生のグループ発表が5分で終わり、司会・コメント担当の学生は全員遅刻・欠席で、しかも何の準備もしてこなかったという、僕の教育史に残る「不祥事」を招来してしまった。考えてみると、ブログで日々の成果を発信しようと約束しておきながら、また、この講義は議論を何よりも重んじるといいながら、半分以上の学生がそれをしていない状況があった訳だから、いずれこうなることは予想できた。にもかかわらず、打つ手がなかったことが悔やまれる。そして、その中で献身的に講義に関わっていた学生が去っていったことが残念でならない。まさに断腸の思いだ。
1990年から教壇に立つようになって、最初はフツーの、つまり講義をして、「何か質問は?」みたいなことをやっていた。97、98年頃、ある学生の講義感想に「先生がやりたいような、先生=学生の交流より、隣に座っている名前も所属も知らない学生が、何を考えているのかに興味がある」と書いてきたことを契機に、学生主体の講義作りに大きく舵を切り、今日に至っている。ワークショップやエンカウンターの手法などを参考にし、初等教育の授業作りなどの本も随分読んだ。それなりの成果もあったはずだが、ここ2年ほどの行き詰りも感じている。今日の出来事は、それをはっきりと示している。
学生主体という僕の思いが、「自分なりに頑張っている」という独善性とレベル低下を生みだし、グループワークの重視が、責任放棄・転嫁や、みんなでやっているんだから責任が軽減されているという勘違いした雰囲気を醸成しているのは事実であろう。むろん、学生主体から教員主導に再転換をはかれば、うまくいくというものではない。学生主体と教員主導といった陳腐な二分法を乗り越える知恵が求められているのだろうが、、、、

3 comments

  1. numinous より:

    クラスのサイズ、授業の流れ、受講生の特性(モチベーション、問題意識、教員に対する態度)、教材の特性、メディアの要因(視聴覚、プリントなど)などいろんなファクタが絡んできますので、その場その場の雰囲気で常に流動性を持たせ、次はいったい何が起こるか分からないといった緊迫感があった方が新鮮だろうと思います。
    ある程度、この先生のスタイルはこうだ、という固定観念ができてしまうと、受講生も安心してしまうので、臨機応変&意表を突く展開に巻き込んでしまえば、OKではないかと。。。
    教員と学生の相互作用要因が何よりも決定的ですから、まず彼らが自分にどのような態度を持っているのか、彼らのハートとこちらのハートのずれを修正していくことが鍵でしょうね。

  2. 弓山達也 より:

    numinousさん、貴重なコメント感謝です。
    確かに惰性的になっていたのかもしれません。どーせ弓山の講義はディスカッションだから、しゃべりたいヤツがしゃべってればいいんだろうって気にさせていたのかもしれない。
    意表をつく展開ね、、、わかりやした!

  3. やっぱり動物って癒される!そんなブログです!

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