癒しを求める心と体

→1995年夏に國學院大学日本文化研究所の「日本文化を知る講座」で話した内容を「癒しを求める心と体」『国学院大学日本文化研究所報』(No.185、1995)にまとめました。この名称は結構気に入っていて、その後も何度か違う内容ながら、このタイトルで話しています。


一、はじめに
 近年、日本を含めて欧米先進諸国において、さまざまな分野で「癒し」(ヒーリング)という用語が散見されはじめてきた。雑誌やテレビで特集が組まれ、吉本ばなな氏のような人気作家が癒しについてコメントをしている。リラクゼーション、クリスタルや香りによるヒーリングなど、癒しに関する書籍の出版やワークショップが目に付くようにもなった。東京の大手書店では「セルフ・ヒーリング」なる臨時のコーナーが設けられ、関連の書籍が所狭しと並べられた。音楽を聞いたり、映像を見たりするだけで癒されるというテープやビデオもあった。癒しを与える鉱石も販売されていた。これまで認知度の低かった「癒し」「ヒーリング」というタームも市民権を得たようである。だが、こうした社会的な関心の昂まりにもかかわらず、癒しという対象自体が、日本においては本格的に研究されてこなかったことも事実なのだ。癒しについて、例えば宗教でいう「救い」や医療でいう「治療」とどう違うのか、共通の認識が我々の間であるわけではない。本報告では主に宗教と医療にまたがる分野での癒しに関する予備的な考察を試み、癒しブームとでもいうべき現象の背景について考えたいと思う。
二、癒しとは何か
 ところで、ウェーバーが指摘するように、インドの業思想をはじめ、宗教は「いわれなき苦しみ」にもっともらしい「合理的な」意味を与えてきた。だが、むしろ癒しの現実は、こうした合理的・知的な把握ではとらえきれないものがある。知性に働きかけるだけではなく、身体や感性に直接的かつ具体的に訴えかけることも重要である。広い意味での癒しは人間の全人格に働きかけるものといえよう。だが、もしあえて救いと癒しとをわけるならば、教義に基づいた知的な救済の働きかけ、つまり生きている意味を知的にわからせる働きを救いとするのに対して、生きている意味を体で「感じる」「実感する」働きを、狭い意味での癒しとすることもできよう。もちろん救済の現場においては、この二つの働きははっきりとわけられるものではない。
 医療の現場でも癒しは注目され始めている。それは身体を機械としてとらえ、病原をメカニカルに取り除こうとする近代医療の身体観・人間観に対する反省、および人間を全体としてとらえていこうとするホリスティック医学の台頭と軌を一にしている。というのも癒し(healing)という語は健康(health)、神聖な(holy)、健全な(hale)という語と関連をもつことから、癒しが健康や神聖なものとの関わりをもつというのは容易に理解できる。だが、癒しは、また全体(whole) とも語源(holos) を同じくする。その意味で、癒しを単なる宗教的な病気治しの意味に限定せず、むしろ人間に対するホリスティックな働きかけと看做すこともできよう。
 このように、広義の癒しは人間全体に働きかけるという意味で、救いや治療を包括するものといえる。だが狭義には癒しは、人間に知的に働きかける救いと違って、これに直接的かつ具体的に働きかけ、生きている意味を体で感じさせるものである。また癒しは近代医療のいう治療と比して、人間をまるごととしてとらえ、ホリスティックなアプローチをするものとしてみてきた。あえて理念的に類型化すれば、救いは知的・精神面に、治療は身体に物理的に働きかけるものであるのに対して、癒しは人間を一つの全体としてとらえ、精神にも身体にも訴えかけるものとすることができよう。もちろん人間を全体としてとらえるとき、人間をとりまく社会環境は無視することはできず、人間の癒しは社会や自然との調和と不可分なのである。
三、癒しの背景
 これまで癒しの性格を全体性志向や調和で特徴づけてきたわけであるが、では、なぜ今日、癒しが注目されるのであろうか。このことについて便宜上、個人、対人、社会の三つのレベルに分けて考察していこう。
 個人レベルとして、まず心と体の問題があげられる。例えば近代医療における身体=機械観や、逆に身体性の欠落した知識偏重の学校教育など、現代社会は心と体を切り離した状況を個人に強いる。かかる状況、いわば身体の閉塞状況とでもいうべき事態に抗する形で、心と体の関係を強調する、例えばヨーガや暝想、さらには武道などが注目を集めてきた。この傾向は強まる一方で、同じようにボディワークを用いて心身の調和を目指す癒しに対する関心の高さも、この文脈でとらえられる。
 宗教の現場で癒しは、教義に基づいた知的な救いよりも、生きている意味を体で「感じる」「実感する」働きであることは先にも述べた。この実感や体感に対する強い希求が癒しのブームを支えているのも事実である。真如苑の接心や世界真光文明教団・崇教真光の手かざしのように、一九七〇年代以降に伸長してきた新宗教の多くが霊との直接交流や操霊のパフォーマンスのなかに「感じる」部分を強調してきたのはよく知られている。若者の間で人気を博している、ヒーリンググッズと呼ばれるクリスタル、ラピス、ムーンストーンなどの鉱石を身につけることやイルカヒーリング(イルカとの遊泳で癒しを感じること)でも、エネルギーを感じることはその魅力の無視できない構成要素である。
 対人レベルでも同じことがいえる。更なる競争社会化や情報化の進展にともない、人間関係はますます希薄になりつつある。だが、濃密な人間関係から脱して獲得した自由は、常に孤独とコインの両面をなすものである。個人主義は他者に対する無関心や利己的態度を生みだす危険性を有している。地域社会の解体が叫ばれて久しく、最近では一九七〇年代後半から「家庭内暴力」、一九八〇年代半ばからは小説の題名にもなった「家庭内離婚」といった言葉が定着している。共同性の危機は、家族といった社会集団の最も基礎的なところにまで及んでいる。このような状況のなかで、癒しは他者との和解と結び付けられて語られることが多かった。先のヒーリンググッズにしても、癒しの効果には人間関係における調和と、そこでの安らぎが期待されている。癒しのワークショップでも、心理療法を用いて他者の赦しや受け入れの態度を養おうとするものが少なからずみられる。対人レベルでみるならば、癒しは希薄化する人間関係へのプロテストの役割を担っているといってもよい。
 癒しのワークショップでよく語られるキーワードに「気づき」と「分かちあい」がある。ボディワークや暝想によって自分の行動パターンや心の癖、そして自分よりもっと大きな存在に生かされていることに気づく。そしてこの気づいた内容を他者に伝えて、また実践することで、これを共有し、お互いが和解することが求められる。このとき、それまで分断され、萎縮していた自我は解き放たれ、他者との有機的な交わりのなかに自由になることができる。
 だが、癒しの志向性は個人の内側や対人関係のなかだけで完結するものではない。社会レベルで、癒しを考察する可能性はここにある。社会や自然を本来あるべき姿に戻そうという動きを社会的癒し(social healing)と呼ぼうということも提起されている。前述の通り、人間の癒しは社会や自然との調和と不可分なのである。
 日本では一九七〇年代から本格化した環境保護の動きは、現在、広範な草野根運動として展開されている。それは酸性雨やオゾン層破壊などが大きく問題とされるなか、それまでの地域環境レベルの枠を越えて、地球環境への取り組み、地球を一個の生命体とみなす視座(ガイア思想)を獲得しつつある。癒しの問題は、こうした「エコロジーブーム」と結び付けても説明できる。
 また、東西冷戦終結後、はからずも噴出した各地での民族対立の終結に向けての懸命な努力も、「社会的癒し」といえよう。奇しくも一九九四年一一月にイタリアで開催された世界宗教者平和会議(WCRP?)のテーマは「世界の痛みを癒す―平和をめざす―」であった。そして、一二月の大江健三郎氏のノーベル賞受賞記念講演は「人類全体の癒しと和解」に対する期待と決意で締め括られていた。
 これまで癒しについての関心の昂まりの背景を述べてきたが、こう考えると癒されるべき対象は実に広く、かつそれぞれに深刻である。こうしたある意味で無限定な範囲が、かえって癒しの性格をあいまいにし、概念規定を困難にしているのも事実である。しかも、癒しの体験は「今ここで」の救済の働きという意味において個別的で、極めて多義性・多様性に満ちている。だが、癒しの背景にあるような問題が解決されない限り、癒しへの関心は昂まることはあっても、弱まることはないだろう。

4 comments

  1. 出会い より:

    お邪魔します(^^♪素敵なサイトですね!!

  2. セフレ より:

    サイト拝見しました

  3. こんな楽しいブログ他にはないかも?

  4. イラマチオ より:

    これからも頑張りましょうね!

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