若者と仏教―青少年問題フォーラムを終えて

→1997年9月に(財)全国青少年教化協議会主催のフォーラム「若者と仏教」が開かれました。私はこの財団の専門委員として企画段階から関わりました。この文書は、フォーラムを終えた時点の、所感を綴ったものです。


一、応用宗教学の立場
信仰的な背景もなしに宗教研究をやっていると、時々、信仰者の集まりで「外部」の立場から発言を求められることがある。このような場合、専門としている宗教学や新宗教(新興宗教)研究の観点から、実証的なデータをあげて具体的な事例を説明することに徹していればいいのかもしれない。が、大抵はそれで満足していただけない。つまり応用宗教学とでもいおうか、単なるデータの提供だけではなく、信仰者と一緒となって課題を見つけ、考えることが期待されているのだ。もちろん、こうした関わり方自体、近年の宗教研究で問い直されなければならないことの一つであり、私のような立場でどこまで責任ある態度がとれるのか、いつも釈然としないものがあった。
 今回のフォーラムは、単発のシンポジウムに終わらずに、何度も事前の研究会を開き、また数年計画のプロジェクトの中に位置づけられた企画であることもあって、かなり本格的な応用宗教学の場の与えていただいたような気がする。
 このフォーラムで、グループディスカッションの司会をつとめさせていただいたが、各地で青少年育成の活動をされている僧侶に出会えたことは大きな収穫であった。また私は、伝統仏教に高度消費社会でかき立てられる欲望対処の知恵を期待するという発言をした。ある方から「無い物ねだりだ」というお言葉を頂戴したが、この気持ちは今も変わっていない。あの時は欲望の対処だけはなく、もっと積極的に生き甲斐と宗教というような話もさせていただく予定だったが、十分にできなかった。したがって、以下に二つのエピソードを紹介しながら補足させていただき、先の私の立場について考えを述べていきたい。
二、生きているリアリティはあるか
 フォーラムの後、昨年十一月にPerfecTVの「地球の声」チャンネルからの依頼で、「大学生の宗教体験ツアー」という番組に、私の講義の受講生が出演した。彼らは、神社、修道院、日蓮宗寺院、創価学会を見学し、最後に創価学会の青年信者との懇談会に臨んだ。内容は他宗教への態度、二世信者であること、結婚相手など多岐に渡ったが、青年信者の主張は「絶対的に正しいものがあるはずだ」「何が一番正しいか見極めていかなくてはいけない」ということだった。そして青年信者からの問いかけとなり、一人がこう切り出した。
「自分の生活感なり、価値観なりを形成しているものは何か? 自分たちだったら、それが信仰だ。」
信仰なき我が受講生はしどろもどろに「他人が良いと言ったらそれが良くなってしまって、絶対的なものはないと思うんだけれど、でも自分がないというか、どこか不安で‥‥」と答えに窮していた。
 さて、この番組のビデオを講義で上映して、他の受講生に「君らだったら何て答える?」と聞いてみた。ほとんどの学生が「自分の価値観や生きてるリアリティは信仰なんかじゃなくて、今まで生きてきた経験や周囲の環境によって形成されている」という「模範的な」答えを述べていた。そこで「本当に君らの経験から生きてるっていうリアリティが生まれるの?」と何人かに問いただしてみたところ、胸を張って「そうだ」と言えることのできる学生はいなかった。
 これが現実なのだ。生きているリアリティを感じられず、日々をやり過ごしている青年層だが、それを信仰に求めるのには強い抵抗を覚える。では彷徨える彼らはどこに行くのだろうか。
三、hide現象
 ちょうど、この原稿を書いている時、五月二日に一〇代、二〇代の女性に熱烈な(「カルトな」と表現する場合もある)支持を集めたロックグループである元Xジャパン(一九九七年解散)のギタリストのhideの訃報が飛び込んできた。Xジャパンが派手なコスチュームとメイクで舞台に立つ「ビジュアル系」と呼ばれる一群のロックグループの草分け的存在であったこと、そしてhideが世界に数十人しかいない難病の少女との交流を通して、骨髄バンクへのドナー登録を呼びかけていたこともあって、彼の死は「hide現象」と呼べるくらい、マスメディアで大きく報じられることとなった。私たちのフォーラムの会場としてお世話になった築地本願寺での葬儀には五万人もの人が集まり、時には二キロに及び参列者が献花の時を待ったという。hideの葬儀に徹夜で参列したファンへなされた「あなたにとってhideとは」というアンケートでは、「勇気」「生き方」「夢」と並んで「生きる支え」が最も多かったという(「サンデーモーニング」調べ、五月一〇日放映)。
 hideのライブでの出で立ちからすると、何とも素直で堅実な回答に戸惑いを覚える向きもあったかもしれない。しかし、かつて私の講義の課題として、一九九四年一二月三〇日のXジャパンの武道館ライブでファンへのアンケートを実施した学生によれば、「ファンになって良かったこと」として、「性格が良くなった」「自分がひとまわり大きくなった」「力が湧く」「友人が増えた」という回答が目立ったと報告した。そうするとhideを含め、Xジャパンを愛した少女たちのが彼らに「生きる」ことそのものを重ね合わせていたといしても不思議ではない。
四、ではどうするか
 ロックグループに自分の「生きる支え」を見出せた彼女たちは、ある意味で幸せかもしれない。多くの青年層は「生きている」という確固たる実感を掴めないまま日々を過ごすか、そんなものはいらないと割り切るしかない。宗教はこうした「生きている」という実感に深く関わってきた。宗教がアイデンティティを維持するとともに、リアリティを作り出す機能を有していることは多くの宗教社会者が指摘するところである。しかし「だから今こそ、宗教の出番だ」とは私は言えない。「では信仰者はどうするか」という問いにも答えることはできない。応用宗教学の場を与えていただいたものの、後はやはり信仰者自身の問題であろう。
 もちろんこれは私が、青年層が「生きている」という実感を持つにはどうすればいいのかということに関しては無関心でいるということ意味するのではない。私だったら、教育に関わる者として、また子を持つ父として、さらには一人の市民として、この問題に取り組めばいい。そして、そこから志を同じくする信仰者との連帯が見えてくるに違いない。
 今はそんなふうに考えている。

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