魂の渇きを癒す仏教―豊かな水脈から何を見つけだせるか

→『毎日新聞』1998年7月16日に掲載された署名記事です。担当は内藤麻里子さんで、彼女と確か新宿3丁目あたりで飲んでいる時にでた話をまとめたものだと記憶していますが・・・。


「ブッダ」に関心が集まっている。四月からNHKで放映されているシリーズ「ブッダ―大いなる旅路」は視聴率が十パーセントを越え、関係者は予想以上の数字だという。東京・東武美術館で六月末まで開催されていた「ブッダ展」には、七十九日間で約十八万二千五百人もの入場者があり、平日の午前中でも多くの人が訪れていた。いったい何が現代人を「ブッダ」に向かわせているのだろうか。筆者は、現代人が「ブッダ」に何か精神的なもの、言い換えれば魂の渇きを癒すものを見出そうとしていると考えている。
この点において、これまで現代における伝統仏教の役割は十分に評価されてきたとはいえない。精神的なものへの希求は新宗教教団や、「癒し」や「自分探し」をキーワードにする精神世界と呼ばれる潮流が担い、それに対して伝統仏教は「既成宗教」と呼ばれ、せいぜい死者供養を担う「葬式仏教」と評されてきた。しかしよく見ると伝統仏教の側から積極的に現代人に働きかけていこうという動きもある。
例えば浄土宗総合研究所や真言宗智山派青年会では、現代人のニーズにあった寺院活動が検討されてシンポジウムが行われている。宗派を越えた仏教者の組織である南無の会や(財)全国青少年教化協議会でも、カウンセリングやボランティアなどがテーマとなり、不登校やいじめや性の問題に、仏教者や寺院がどう取り組むのかというワークショップが継続的に開催されている。
 しかしこうした企画の多くは僧侶、あるいはすでに仏教に強い関心を持っている人を対象とし、そのメッセージは一般の人にはなかなか届かない。そこで現代人は「ブッダ」を求めてテレビや美術館に向かう。だが、魂の渇きを癒す智慧は意外と身近に、つまり私たちの日常の風景となっている伝統仏教にあると思う。
 そもそも現代人の苦悩の根源には、消費社会特有の常に欲望が掻きたてられてやまない構造が横たわっている。どんなに物欲や性欲を満たしても、それでは人は満足できない。そして、そのことに気づいていないこと自体に苦しみがあるのだ。飽くなき乱開発や競争主義も、この欲望のからくりのうえに成り立っていると見ていい。
 ちなみに、いわゆるカルトと呼ばれる教団では、おしなべてこの欲望を断ち切ることに絶対的な幸福があると説く。だが、こうした欲望の滅却が個人に対する暴力や極端な抑圧に転化することは、オウム事件を見れば明らかである。重要なことは欲望とのつきあい方であり、その意味で伝統仏教が連綿と伝えてきた無明や執着の教説に、今一度耳を傾ける必要があるのかもしれない。
 また欲望だけなく他者とどうつきあうかという点も、希薄な人間関係が一般的になりつつある現代においては、人々の苦しみとなっている。プライバシーが第一という若者も、その一方で親密さを求めている。問題はどのように人間関係を築いていけばいいのかわからないということなのだ。これまで家族や地域社会に立脚して活動してきた寺院は、人間関係の機微に密接に関わってきた。そこに「縁」を意識、回復させる可能性を見出し、町づくりや地域活動の拠点として寺院をとらえ返すこともできよう。
 個人に内在する欲望に気づくことと他者との「縁」の分かち合いから、おのずと社会的なつながりが見えてくる。仏教でいう布施・報恩・慈悲・利他行といった他者との関わり方を、積極的にボランティアやチャリティと結びつけて解釈する向きもある。こうした実践は何のために生きているのかという生き甲斐すら見失いがちな現代人に、何らかの答えを導き出してくれるに違いない。
 もっとも、自らの欲望や隣人と気長につきあうところに、魂の渇きを癒す術があるという考え方は、早く簡単に救われたいと願うせっかちな現代人には物足りない。しかし「あなたはすぐに確実に救われます」という約束に、危険な落とし穴が潜んでいることは、先のオウムの例をひきあいに出すまでもない。「ブッダ」に向かった現代人が、伝統仏教の豊かな水脈からどのような叡智を汲み取ることができるか、その可能性に注目していきたい。

One comment

  1. 耳フェチ より:

    最高に楽しくて毎日チェックが楽しみ!

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