体験型講義における自己実現―教員がお喋りをやめれば学生は自ら学ぶ

→2001年度の私大連の大学問題研修の事前提出レジュメです。一般にFDは嫌々出る人が多いのですが、僕としては楽しい2泊3日だった。
キーワード:体験型講義、自己実現
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 一昔前に比べて学生の大学への期待や関わりの度合いは低下してきている。私は10近い大学で教鞭をとってきたが、教員室で学生気質の変化を嘆く教員の姿は、どこでもありふれた光景である。しかしこれを嘆く前に、受け入れ側が自らを省みてきたかというとそうでもない。大学内部で大学そのものを論じる機運は乏しいし、社会の関心は小・中・高等学校に向きがちである。入試や就職活動など、目に見える側面の改革は進んだものの、大学の根幹の一つともいうべき講義のあり方に関する議論は少ない。このような状況から講義がつまらない、つまらないから関わりが希薄になる、希薄になるから講義に関心がもてない、もてないから・・・という悪循環がおきているのだ。大学でなされる改革の矛先は、まず講義に向けられるべきではないだろうか。
 私も寄稿した昨年の『大学時報』(9月号)では、打開策としてスタジオ利用、学外実習、起業講座、ゲーム型演習が報告され、学生が講義に強いコミットメントを促すように工夫された立案がならんだ。筆者は、こうした体験型講義を「自己実現の学び」と呼んでいる。そして自らの講義を「プロジェクト」と位置づけ、教員のレクチャーは最小限度に押さえ、企画・実行・総括・講評(成績)までのかなりの部分を学生の手に委ねている。ここで重要なのは、学生自身が溢れる情報の中から必要なものをどのようにして的確に見つけだし、それをどう加工して他者に効果的に表現するか、工夫・体得することである。教員は、学生を向かわせるコーディネータでいいと思っている。言い換えれば、「自己実現の学び」とは彼らがどう〈知〉を自らの手で掴み取るかにかかっているのである。
 自ら〈知〉を汲み取るツールと楽しさを身に付けると学生は大きく成長する。「勉強」=「勉め強いる」から解放され、自律した存在に生まれ変わるのだ。先日行ったフィールドワークでも、彼らのお得意の携帯電話やメールを活用してグループ活動がうまくいった時、学生の顔は信じられないほど輝いていた。私が〈学び〉によって自己実現を果たすというのは、この姿を念頭においている。「授業」に隷属した「生徒」から、「講義」を通して自律にした「学生」に変貌する瞬間である。
 学生の人間性の成熟は、青年に希望を与えるという社会的使命に関わることである。そして今、大学はアカデミズムに閉じこもるだけなく、また教員は自らの研究に終始するだけはなく、その社会的使命をいかに遂行するかに思いを寄せなくてはいけない、と私は考えている。
【大学の取組】
 この問題に関して大学として自覚的に取り組んではいません。していなことをあえて書くことはできませんので、ご容赦ください。ただキーワードをあげるとすると、建学の精神でもある「仏教精神」となるかもしれません。

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