吉本隆明氏に聞く(1)〜(4)

【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)弓山達也氏と対談
[1995年09月05日・07日・11日・12日 東京夕刊]
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【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)弓山達也氏と対談
[1995年09月05日 東京夕刊]
 ◆麻原被告を高く評価 犯罪は否定、宗教は肯定
 現代思想界を代表する思想家、吉本隆明氏(七〇)はオウム真理教事件に関し、雑誌などで麻原彰晃被告(四〇)の存在を重く評価すべきだという発言を繰り返している。その吉本氏に、若手宗教学者で日本学術振興会特別研究員の弓山達也氏(三二)がインタビューを行い、麻原被告を評価する理由、オウム真理教を生んだ社会的背景などについて聞いた。
 弓山氏「今日はオウム真理教をめぐって、先生のお考え、ご意見をお聞かせ願えればと思います。先生は雑誌『CUT』の中で、麻原彰晃の著書『生死を超える』の書評を行い、麻原を修行者として高く評価していますが、それは今も変わらないのです
か」
 吉本氏「僕は今でも、たぶん中沢新一さん(注1)のようにヨガやチベット仏教について知っている人よりも、麻原さんの存在を重く評価していると思います。うんと極端なことを言うと、麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではないと思っています。これは思い過ごしかもしれませんが、僕は現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないかというくらい高く評価しています」
 弓山氏「先生は麻原彰晃と直接、会ったことはあったのでしょうか」
 吉本氏「会ったことはなくて、ただ会いたいという申し入れが二回か三回ありました。その時は『いいですけれど、もう少し分かるようになってから、お会いしたいですね』と言って、そのまま今回の事件になってしまいました」
 弓山氏「麻原彰晃は思想家としてはどうなのでしょうか。麻原のすごさというのはヨガのすごさであって、麻原自身のすごさではないのではないでしょうか。吉本先生は常々『大衆の原像(注2)を自らのうちに繰り込んで、思想を形成していかなければいけない。輸入したり、借りてきたりしたものは思想の自立ではない』とおっしゃってこられた。その点で“思想家麻原”に関してどうお考えでしょうか」
 吉本氏「僕は思想家麻原を評価する根拠が一点あるんです。それは『生死を超える』という本の前半部で、麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。仏教系の経典とか本とかで、日本の奈良朝までの修行僧が、何をやっていたのかは『生死を超える』を読むと、ああこういうことをやっていたんだ、ということが全部言われてしまっています。僕は『生死を超える』という本は『チベットの死者の書』や仏教の修行の仕方を説いた本の系譜からいえば、相当重要な地位を占めると思っています。あそこまで言ってしまったら、仏教の修行の秘密や秘密めかしたところが何もなくなってしまいます。つまり、相当な人でないとここまでやれないよ、と思うのです。やっぱり相当な思想家だと思います。だけど、本当はまだ不明なところがたくさんあるわけです」
 弓山氏「思想の中にわからない点が多いとは?」
 吉本氏「裁判の過程の中でもなんでもいいんですけれど、麻原という人が『自分たちは市民社会の善悪の基準、法的善悪の基準からすれば、確かに悪いことをしていることになる。市民社会的な倫理から弾劾され、法で罰せられることは仕方のないことだ。しかし、われわれの持っている宗教的世界観からすれば、それはこういう位置づけができて、こうなんだ』と、はっきり表明するということをやれば、不明な部分が分かってくるような気がするんです。それをやってくれないと、分からない。麻原さんが世界観を話さない次元で、オウム真理教のやったことを弾劾したり、否定したり、これは犯罪者集団であり、異常者、殺人集団であるからダメだと言いたて、決めつけたって、オウム真理教、あるいは宗教一般の持っている超越的な(現世の倫理を超えた)部分を否定することにならないと思います」
 弓山氏「麻原被告やオウム真理教の行った犯罪自体はどう考えるのですか」
 吉本氏「ですから、僕の中では、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうという考え方の自分は、オウムの犯罪を根底的に否定します。特にサリンによる無差別殺りく、無関係な人の殺りくというのは、まったく肯定すべき余地がない。まったく否定します。大衆の原像というのを考える限りは、そうなるわけです。ところが、僕の中で、否定だけで終わるかといったら、そうではないです。本来、超越的な性格を持っている宗教の問題、理念の問題、思想の問題が僕の中にあります。その問題を僕が重点にすれば、『麻原彰晃、つまりオウム真理教というのは、そんなに否定すべき殺人集団ではないよ。この人は宗教家としては現存する世界では有数の人だよ』という評価になると思います。そうすると、僕の中で二重性をはっきりさせなくてはいけないでしょう。なぜ、お前の中に二重性ができたのか、分離してきたのかをですね。二重性の解決が、僕にとって、オウム真理教事件の一番の課題なんです」
 (注1)中央大学総合政策学部教授、チベット密教を研究、事件前、雑誌で麻原彰晃被告と対談、事件後は「麻原氏はタントラ仏教を理解している」と発言している。
 (注2)大衆の生活に価値を見いだし、そこを立脚点に自らの思想を検証する試み。
 よしもと・たかあき氏 大正13年東京生まれ。昭和22年東京工業大卒。詩人、評論家。著書に『共同幻想論』など。
【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(2)オウムに“親鸞的”造悪論
[1995年09月07日 東京夕刊]
弓山氏「先生は麻原彰晃を有数の宗教家、思想家と評価する一方、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうという考え方からは、オウム真理教を根底的に否定するとおっしゃった。先生の中にあるオウム真理教に対する評価の二重性の解決が、今後の課題ということですが、たしかに宗教というのは、社会の倫理とぶつかる部分があります。親鸞も『私は父母のために念仏を唱えたことはない』と言っていますね」
 吉本氏「僕は親鸞が好きで、親鸞にたくさんの影響を受けていますが、オウム真理教、つまり麻原彰晃のやったことは親鸞的な思想から言うと、造悪(ぞうあく)論なんです。親鸞は『善人より悪人のほうが浄土に行ける』と言っていました。そうすると、弟子の中に『それじゃあ、悪いことをしたほうが浄土に往き易い』と言って、悪いことをする集団、分派ができました。困ってしまうんだけれど、本来的に親鸞の教義の中には『それなら、わざと悪いことをしたほうが、浄土へ行けることになるんじゃないか』という造悪論を否定できない要素があると思います。それでも、親鸞は『良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう』という答弁の仕方をして、造悪論をなだめますけれど、それは弁解にすぎず、親鸞の教義の中には『やっぱりいいんだ。悪いことをしてもいいんだ。極悪なヤツのほうが往生しやすいんだ』という教義が確実にあるんです」
 弓山氏「麻原のいう『タントラ・ヴァジラヤーナ』も同じ発想です。親鸞、あるいは仏教の教義の中に危険性があるということですね」
 吉本氏「親鸞が『自然法爾章(じねんほうにしょう)』の中で漏らしている本音ですけれど、仏教の中には危険な要素があります。造悪論も仕方がないんだと言わざるをえないところがあるんです。僕はオウム真理教のやったこと、やらせたことは、親鸞流に言えば、造悪論の中に入ると思います。それで、僕の願望では『麻原、あいつは極悪深重できっと往生しやすいよ』と言いたいわけです。言えるようになりたいわけです。けれども、僕の器量が小さくて言えないわけですよ。ただ自分の中に二重性の矛盾としてその問題があります。それは自分のダメさかげんでもあり、どうしても二重性になってしまうのです」
 弓山氏「二重性の解決のために、葛藤されている」
 吉本氏「どうすれば、この二重性を解けるか。方向性だけは自分にあるつもりです。『市民社会あるいは庶民の善悪の倫理よりも、浄土の善悪の倫理のほうが規模が大きいのだから、庶民の善悪なんていうのは、あまり問題にならないんだ』というのが親鸞の言い方だと思います。僕らは信仰者ではないから、『浄土の善悪の規模のほうが大きいんだ』とは言えないんだけれども、市民社会の倫理というものが、もう少し普遍的な倫理に置き直せるんじゃないかなと思っています。それがたぶん未来社会、消費社会の次の倫理になり得ると考えます。浄土の善悪ではないけれど、市民社会の善悪よりも、もうすこし普遍化した善悪の規模、倫理の規模というものがつくれるのではないかな、と僕は思っているわけです」
 弓山氏「現在の価値相対主義の中、何が真なのか、何が善なのかわかないような状態の中で、ある意味では、麻原彰晃も新たな価値創造、新たな文化の創造を提示しようとしたのかもしれません。しかし、オウムバッシングをしている人たちが守ろうとしている市民社会、これが抱える諸問題をそのまま残していいのか、というとそうではないと思います。現在の市民社会の中で間違っている点は間違っているんだ、と言わなければならない。では、どうするかということが課題になってくるわけですね」
 吉本氏「そうです。だから麻原氏だって、ある意味で自分なりに解こうとしたし、解いたと思ったと思うんです。だけど、それはちょっと違うよ、ということになると思うし、僕らも、それはこうなんだとはいえない。けれども、今の市民社会の倫理は狭くて絶対の正義とはいえない。もう少し普遍化できるんじゃないかな、と思います。僕は、それを見つけたいんだ、探したいんだという願望を持ちますね。そういう願望が遂げられるときに、自分の中にある二重性みたいな矛盾が解けるんだと思います。今のところは、そんなはっきりしたものがないですから、自分の中にやっぱり矛盾を抱えこんでいます。市民社会の倫理として、その社会の一員としての自分を否定する以外にない一方、思想として市民社会のあり方を超えたい自分があります。何か超えようとするものがあります。そういう自分がありますから、どうしても二重性を抱えこんでしまうんです」
【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(3)家族解体の時代
[1995年09月11日 東京夕刊]
 弓山氏「新宗教の発生の歴史を見てみますと、社会の変動期に新しい宗教が出ています。幕末維新期ですと、幕藩体制の解体とともに天理教や金光教が出ていますし、敗戦から一九六〇年代前半にかけて農村が解体していくなかで、創価学会や立正佼成会が伸びてきました。八〇年代は特に家族の解体ということが言われたわけですけれど、同時に、イエスの方舟とか統一教会のように非常に疑似家族的な、ある意味でセクシュアルな様相さえ呈している新宗教が出てきたわけです。イエスの方舟ですと、オッチャンとよばれる千石イエス氏を中心に“シオンの娘たち”がいる。統一教会の場合は、“真のご父母様”とされる文鮮明夫妻がいて、“ホーム”に集うという疑似家族ですね。オウム真理教も初期のころは、強い父権性を帯びた麻原彰晃を中心とした“アトホームな家族主義的な”様相が強かったわけですけれども、この点で、先生は八〇年代から九〇年代にかけての家族の現在と、オウム真理教のような家族主義的なカルト宗教が台頭してくる原因というものをどうお考えでしょうか」
 吉本氏「僕は一般論として、どんな宗教も家族を超えるということは特質だと思います。現在は高度な消費社会になって、ますます家族の解体と宗教につながりがあるに違いないと思えます。それは何なのか考えてみますと、実感からはとても簡単です。たとえば、自分の子供が、ある宗教集団に入りたいと言ったら、『僕には止める力はない、止めるだけの魅力はないな』と思えるのです。なぜなら、親として子供の世代に対して、教えるべき理念が何もなくなり、持てなくなってしまっているからです。家庭のほうがいいという根拠もないし、根拠を親の世代として示すことができなくなっている段階なのです」
 弓山氏「その原因を、どうお考えになりますか」
 吉本氏「社会の進展度です。一つは、男女両性の性的均一化であり、もう一つは女性の過渡的な解放への意欲だと思います。性というものが確固として対応できるだけの、僕流にいえば、対幻想(注)をこしらえることができなくなってしまっています。それから、子供の世代に対しての対幻想、世代間対幻想というのが、もう何も作れないのです」
 弓山氏「お母さんと娘さんが友達のような関係で対幻想が結べない。男と女の性が均一化してしまったことによって対幻想が結べない。それが、家族の解体につながっているということですね」
 吉本氏「社会経済的に言えば、女性が経済的に相当解放され、独立してやれるようになってきた。それから、やはり女性が消費や遊びに目覚めた、豊かさに目覚めたということがあると思います。さまざまな理由が挙げられるでしょうけれども、結局は世代間対幻想と男女間対幻想が極めてあやふやになってきた。つながりがあっても、強固な絆(きずな)ができないことが、家族の解体の大きな原因ではないでしょうか。それで、どうするかといえば、あなたのおっしゃった疑似家族というか、家族らしき理念、何か家族らしき形態を取れる新宗教にひかれてしまう。何か教えることがありそうに見える新宗教のほうが、家よりも魅力があると言えるのではないでしょうか。その魅力に対しては抗しがたいですね」
 弓山氏「日本も含めて、先進諸国では家族の解体はぎりぎりのところまできている。そういう状況で、カルトが出てくるのは必然だと思います。しかし、昔のように大家族制に戻るわけにはいかない。ではどうすればいいのか。カルトの魅力に負けっぱなしでいいのでしょうか。別の共同性の可能性は出てくるのでしょうか」
 吉本氏「新たな共同性は出てくると思います。さしあたって、家族の組み方を開く、すなわち緩くする以外にないんじゃないでしょうか。もっと言えば、疑似宗教的な家族形態をとれば、家族が成立するような気がします。父権や父性、母権や母性をいっさい発揮しないのです。父親や母親が、父権や母権を発揮しなければ、さしあたって疑似家族的宗教の引力に抗することができるんじゃないかと思います。そうでなければ、もう家族はまるっきり解体です。必然的に、男は男、女は女で個々別々に住んで、性についてだけ、いっしょに会うやり方になっていく以外にないんじゃないでしょうか。疑似宗教的であって、宗教ではないという家族の形態を取る以外にないと思います」
 弓山氏「疑似宗教的な家族の成立は理念的には可能であっても、具体的な方策としては難しいですね。しかし、いずれにせよ、現代のように核家族至上主義の閉じた共同性ではなく、同性愛やシングル志向をも含めて、家族を新たな可能性に解放していくことが求められていますね」
                ◇
 (注)対幻想 異性や家族を支え、覆う原理。文学のような個人の幻想とも、宗教・法・国家のような共同の幻想とも区別される。
【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(4)死を説くオウムに魅かれた若者たち
[1995年09月12日 東京夕刊]
 弓山氏「オウム信者の体験談を読んでおりますと、死をも修行で体験できるのが大変魅力らしいですね。彼らのイニシエーション(秘密の儀式)の中には、ほとんど臨死体験に近い状態が訪れるものもあるという。今の若者、現代人は、死に対するあこがれが非常に強いと思います。先生は現代人の死に対するあこがれと、オウム真理教が死を強調し体験できるということに、何か関係を感じますでしょうか」
 吉本氏「死というのは他人の死だけが体験できるのですけれど、若い人たちには、何となく未知で神秘で、おっかなかったりする死の問題を自分で触ってみたい、幻覚でもいいから、自分で死に触ってみたいという欲求が同時代的にあると思います。オウム真理教は習練によってある程度、そこまで行けると言っていますし、麻原さん自身が明らかにそこまで行ったと思えるようなことを、著書『生死を超える』で体験に基づいて記述をしています。だから、若者がひかれていく。死にひかれるようにオウム真理教にひかれていくといいましょうか、死を説いているオウム真理教にひかれるんじゃないかと思います」
 弓山氏「天理教など江戸から明治の移行期にできた宗教は『この世の極楽』とか『生き神』ということを説くんですね。どちらかというと来世よりも現世が中心です。し
かし、ここ五、六年だと思うんですが、死に対する関心が高まってきた。それはなぜなのか。その背景をどのようにお考えですか」
 吉本氏「社会的に敷延(ふえん)すれば、いろんなことがあるわけで、こういうふうに高度な社会になって来ると、何が真なのか全くわからなく、見当がつかなくなっています。僕らの時代には社会学的次元とか、政治学的次元とかの障壁を設ければ、そこで、死の問題や社会的事件の問題など、いろんな考え方の判断ができるという状況がまだありました。けれども、今は障壁がなくて、直にあらゆる問題が自分の身体のところに切実に引っ掛かってきます。だから、自分の身体が最後の障壁となるところまで、だいたい行ってしまうんじゃないでしょうか。身体の好調、不調で受け止めるより、仕様が無くなってしまっていることが、身体の不調の極限への関心、死への関心を深くしていると思います」
 弓山氏「イデオロギーがなくなってしまい、判断基準を失ってしまった世代は、自分のからだで受け止める快、不快といいますか、『これは生理的にいやなんだ』『こっちはすごく気持ちいいんだ』といったところにまで、判断の次元が降ろされてしまっている。そういう中で身体に対する関心が高まっている。それで身体とは何かをとらえるには、逆に死から映し出していかなければならないところにまで、現代人は追い詰められているんでしょうね」
 吉本氏「快、不快以外によりどころがないし、その快、不快も自分で工夫して、ひそかに不快なるものを避けるところまで、きているわけですから、いきおい身体性をもとに死への関心が前面に出てきてしまった。これは高度消費社会の特徴なのではないでしょうか」
 弓山氏「麻原は、イデオロギーが死滅してしまった今、極限の状態である死を座標軸にして、初めて自分の位置や身体的意義を獲得できるということを説いた。未知で神秘である死を説くことで、若者をひきつけたように思います」
 吉本氏「そうでしょうね。そうだと思います。しかし、僕の死に関する考えは若干違います。僕は死は突き詰めれば、突き詰められるはずだ、と思っています。僕らが死や臨終だと言っているものは、一点であるかのように言っているけれども、本当に厳密に言ったらそうじゃないと思います。親鸞なんかは、歴然と“あの世”とは言っていないんです。あの世とこの世の中間のところ、生と死の間のところにある、あるひとつの場所が死なんだ、と親鸞は言っているのです。そこからこっちへ帰ってくると、つまり、もし人間が、その視線を作れるとなると、今までこちらから、つまり、死のほうに向かってだけしか見えなかった事件とか事物が、違うようにみえるぜ、と言っていると思います。僕もやはり、それに近いことを言いたいわけです。人の死を観察して死を思いはかるのではなく、身体的死をきちんと詰めれば、死とはこうだ、といえるようになると思います。しかし、なぜ、僕が死に関心を持つかといわれれば、きっと、若い人たちと同じだし、オウム真理教みたいなものがはやってしまう根拠とも同じだと思います。なかなかちゃんとした解決がないから、死を超えようと主張する新新宗教が一つの解決策として、提起されるんじゃないでしょうか。そういう意味で、僕は麻原さんをとても重く評価します。人が考えているよりも、あの人はそんなにちゃちなものじゃないぜ、負けられないぜ、と思うのです」
 =おわり

One comment

  1. 春間 則廣 より:

    >そこからこっちへ帰ってくると、つまり、もし人間 が、その視線を作れるとなると、今までこちらから、つまり、死のほうに向かってだけしか見えなかった事件とか事物が、違うようにみえる
    ある一点が死の瞬間であったとしても、そこへ至る道は、何処までが生きるための生の営みで、何処から、死へ向かっての生の営みか、理論として分けることは難しい
    いわゆる、瞬間と言うものは、生の営みの、認識でしかないわけだから、定点としてはありえない
    死はあっちにあるのではなく、こちらにあるのだけれども、視線を移すことは容易ではない
    たとえ、死ではなくても、”私と貴方”と言う視点、の移動さえ
    (これも、生と、死のように連続した道にあるのだけれども)
    私が、貴方の視点に立つことは、同様に難しいことである
    あえて、そこを超えることを、瞑想の目的と設定するなら、 私が貴方となることにその目的は到る
    本来、瞑想には、目的がなく、状態があるだけなのだが、この目的は、実利、虚仮を含まないから
    瞑想以外の理由付けを、拒否する

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