官製スピリチュアルのほころび

日本宗教学会での報告。何と日本学術会議哲学委員会「哲学・倫理・宗教教育分科会」共催のパネル「見える宗教教育・見えない宗教教育―宗教教育再考―」ということで、すっごく偉そう。
・ 代表者:山中弘
・報告
海外の公教育における宗教教育の現状と日本への示唆(藤原聖子)
公認宗教制の中の宗教教育―タイにおける公教育の事例から(矢野 秀武)
高校の教科書に見られる「仏教」について(江田昭道)
「心のノート」の可能性と限界―官製スピリチュアルのほころび(弓山達也)
・コメンテータ:土屋博 ・司会:山中弘
フロアからの質問は4〜5つあったが、ほとんどが僕に対する質問だった。粗もあったんだろうが、議論を巻き起こせたのはよいことだ(と納得しよう)。以下、報告要旨


 二〇〇二年、文科省より「心のノート」と呼ばれるワークブックが全国の小中学校に配布された。この「心のノート」には、既成の道徳副読本と比べて「自己」「他者」「自然・崇高さ」「集団・社会」に関する踏み込んだ記述が散見され、一部は宗教的情操や普遍的な宗教心とも重なる性格をも有していた。
 本報告の目的は、「心のノート」に示された見えない宗教的次元を含む道徳性を官製スピリチュアリティと措定し、この見えづらさに取り組む教育現場の代表的な議論・実践を検討することにある。そして教育現場では、この見えない官製スピリチュアリティとどう可視化するかが問題となるが、これを整理することにより、宗教的次元を含む道徳性をどう伝えるか、その課題が明らかになるに違いない。
 「心のノート」は、「いのち」観のような扱いづらいテーマにも大胆に踏み込んで定式化している点が際だっている。「心のノート」の可能性と限界はかなり明白で、それまで副読本を読んで感想を書いておしまいであった道徳の授業に、机上とはいえ実践性をもたらす、このワークブックは、文科省初等中等教育局長によれば「児童生徒が身につける道徳の内容を、児童生徒にとってわかりやすく表し、道徳的価値について自ら考えきっかけとなるもの」である。他方、教育現場では、「わかりやすさ」(とっつきやすさ)の反面、その抽象性ゆえに使いづらさや、具体的な議論に引き落とした際、報告者がファシリテートした小中高の教員研修でも指摘されたような「価値の押しつけ」が危惧されることとなった。こうした官製スピリチュアリティのほころびゆえに、京都府が「心のノート」の地域版として『京のこども 明日へのとびら』を作成したことは自然なことであろう。かかる京都府下の道徳教育モデル校での試みを整理すると、宗教的次元を含む道徳性をどう伝えるかについての課題は次の三点にまとめられる。
 ?「心のノート」のように全国区での使用を念頭に置いた教材は必然的に抽象的な内容にならざるを得ない。かかる見えづらい官製スピリチュアリティを具体的な見える形にするためには地域性をテコに地域スピリチュアリティのレベルに落とし込むことが有用である。
 ?しかし地域性のレベルにしたからといって宗教的次元を含む道徳性が伝わるとは限らない。「心のノート」と同様に教育現場で持て余し気味が伝えられる総合的な学習も、単に地域の人に話を聞くだけでは、不毛な時間つぶしに終わる危険性もある。地域性をめぐって家族・郷土・歴史といった具体的な事例の学習と家族愛・郷土愛・伝統への愛着といった抽象的理念に思いを凝らすこと との往復運動が、より有効な道徳教育となりうる。モデル校が単発の授業やイベントに終わらず、学期をまたがり、しかも総合単元的に道徳教育をとらえているのはそのためである。
 ?本報告では京都に焦点を当てたが、このような歴史的な特性を有する地域はむしろ稀で、ニュータウンや大都市に共有すべき地域スピリチュアリティがあるかというと心もとない。また地域スピリチュアリティ自体も価値の多様化・相対化の中で必ずしも共有されるとも限らない。モデル校では保護者などから違和感が表明されたケースを聞かなかったが、地域スピリチュアリティもまた官製スピリチュアリティと同様に、「価値の押しつけ」の危惧にさらされているといえよう。その意味で、抽象的な道徳的価値の具体化への道筋は、地域性に限らず常に複線的に模索される必要があるのだろう。

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