映画キッズ(9)最終回

今回で1970年代中頃の映画キッズ(当時、自分たちのことを「名画座小僧」と言ってたのを思い出した)の話は最終回。最後は当時の映画キッズの身だしなみについて語ろう。
「映画キッズ(1)」「映画キッズ(5)」で述べた「ちらし集め」出陣の際のスタイルは、ジージャンにグルーピーケースという出で立ちだった。ジージャンはいいとして、グルーピーケースというのは知らない人には判らないだろうが、A4サイズのボール紙でできた箱で、映画キッズに限らず、当時の中学生の必携だった。なぜかアメリカのフットボールチームのロゴが入ったりしていた。
読み物(雑誌)は『ロードショー』でもなければ『スクリーン』でもなく、ミニコミ誌・アングラ誌の雰囲気をたたえた『ぴあ』だった。『キネマ旬報』には手が届かなかった。『ぴあ』の各頁の端っこに「はみだしyouとぴあ」とかいう投書欄があって、僕は高校になってから常連だった(本名だったり○印の中に「弓」の字の屋号)。毎年「ぴあテン、もあテン」というのがあって、その年の映画ベスト1と、もう一度見たいベスト1が選ばれ、予告編大会が終日かけて行われた。ある年の予告編大会に行った時、横に大林宣彦と大森一樹がいて(ぴあテンの方の受賞者として来ていた)、並んで『未来惑星ザルドス」を見た。『ぴあ』と似たような情報誌に『シティロード』、高校になると『アングル』というのがあったが、こちらはもっとアングラ度が高かった。大麻の栽培方法(マントラを唱えるとか)や切手の不正使用法(何度も同じ切手使う方法)などが伝授される雑誌だった。中高学生も背伸びをして読んでいたのもいたが、僕はやはり『ぴあ』だった(大学教員になって何かのゲストで大学に来られた当時の編集長とがっちり握手をさせてもいらった)。
財布や生徒手帳には、こうした雑誌から切り抜いた写真がしこまれていた。僕は「イージーライダー」の切り抜きが入っていたが、数学の先生に取り上げられてしまった。女優は僕らと同じ年のジョディ・フォスターとテータム・オニールが人気。そしてTVシリーズ「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」が中学3年生から開始したこともあってリンゼイ・ワグナーがダントツになるが、僕は「タクシー・ドライバー」「ペーパームーン」「ペーパーチェイス」といった映画は好きなものの、彼女らにそれほど関心はなかった。「映画キッズ(7)」で書いたようなタレ目系(そういえばキャサリン・ロスなんかも好きだった)に御執心だったし、映画キッズにはラクエル・ウエルチ(当時「ミクロの決死圏」とか「恐竜100万年」がリバイバルされていた=どうしてだろう?)なんかに注目していたかなぁ。でも、これはあまりにもわかりやすい嗜好性ですね。


2005年に、当時管理していたBBSの映画談議から始まり、2009年の中学校同窓会で褒められたんで続きを書いてきた連載も、これで終わり。さすがに30年以上もたつと、やや感傷的にならざるをえないものの、かなり突き放して当時のことを書くことができた。70年代ローティーン男子論としても、面白いんじゃないかと思う。
中学の同窓会で口々に「ゆみやん(中学では、そう呼ばれていた)、しゃべり方がかわんない」と言われた。このしゃべり方だが、大阪ネイティブの母親の影響も大きいが、映画キッズ間で映画論を戦わせる中で「いかに面白く」「いかに説得的に」「いかにモノをよく知っているか(知ったかぶり)」見せつけるために自然と訓練されたもの(当時はそういう意識はない)だと考えている。あとは大学時代の学館活動(拙著『天啓のゆくえ』(まえがき)参照)と自己啓発セミナー(拙共著『祈る ふれあう 感じる』(3章)参照)かな。
エッセーの中で自己形成に、どういう映画が影響を与えたかということを述べたが、「映画を語る」プロセスでも自己形成されていったのだろう。またスポーツでもなく、勉強でもなく、恋愛でもなく、喧嘩でもなく、十代前半を「名画座に行って映画を見まくる」という行為に多くのものを費やした訳であるが、この「映画館で映画を見る」という行為自体も、実は自己形成の重要な一角をなしているんだろうと考えているる、、、が、もう自己分析は疲れたので、本当にここでおしまい。連載、ご愛読ありがとうございました。

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