メーリングリスト騒動補遺

メーリングリスト騒動顛末記を書いた後、面白いように、また一悶着あり、思索が迫られた。
携帯が、喋ったり、うなずいたりと同様に、また携帯を中心に動いていることから(文字通り携帯を握りしめているものね)、携帯が身体の一部であることには、もはや異論はないだろう。携帯メールは「やあ」「こんにちは」のやりとりと同じ。しかも口述に近いので携帯メールはあやふやだ。「アレ、書いてあったけ?」とか、「そのメールもらってない」とか、よくある話だ。口述の世界はそれでいい。言った/言わないは大人げないから、「まぁ、いいや」で済む。
ところが携帯メールは口述というリアリティをひっさげながら、再帰可能な文字データでもあるところが厄介で、とても危うい。つまり僕のようなPCメールから始めた世代は携帯メールにも文字データのやりとりの厳密性を求めるが、携帯メールから始めた世代は、身体感覚で携帯メールに接するので、そんな厳密性など関係ない。
こうした携帯の身体性を否定はできない。我々は譲歩しよう。しかし研究・教育に関わる限り(というか普通に仕事では)、文字データの厳密性は譲ることできない。携帯とPCとの使い分け、機能分化、両刀使いを徹底するしかない。


、、、と書いていて何も解決しないことが判った。「携帯メールはプライベート、ゼミではPCメール」ということをやって破綻したのが、2006年のことだったからだ。2001年〜2005年までは、携帯を使いつつ、学生は普通にPCメールで議論をしていた(その他、ブログ、掲示板などを通じて、今から思うと信じられないくらい議論を交わしていた)。今はメールを用いて議論ができない。携帯はもちろん、mixiのVOICEやTWITTERのお喋りは盛んなのに、ネット上で意見を交わし、管理人なり、責任者なりが、意見を取りまとめるということができない。
というか、最初から携帯があった世代にとって、メールは議論をするツールでないのだ。挨拶したり、近況を伝えたり、つぶやいたり、写真を送ったり、一対一のコミュニケーションツールなのだ。そんなところで、議論のためにPCメールを強要したところで、「パソコン開いていない」「ネットにつながらなかった」「メールチェック忘れた」が関の山である。
メディアリテラシーみたいな教育を徹底させるといいのか。しかしわずか数回みたいなリテラシー教育が身体性の次元に実践的に切り込むのは到底無理だ。何も変わらないだろう。仕事でガンガンに鍛えられて、仕事と余暇よろしく、PCと携帯の両刀使いになるを待つか。同じように社会に出てるまで人は「子ども」と達観し、それまでは「子ども」の世界は彼ら/彼女らのプライベートの延長線と考え、未熟な携帯メールのやりとりに道を明け渡し、何とか技術革新と工夫に期待をかけるしかないのか。僕には判らない。

One comment

  1. たむら より:

    相変わらず、熱心に若手・学生の指導をされておられるようで敬服です。
    どうやっても、ネットやメールだと議論するのは何かと大変ですね。
    なかなか意図が伝わらないし、書く時間もかかります。
    メールやメーリングリストが使えるようになって便利でびっくりした昔と
    比べると、今はデジタル・ネイティブといわれる世代なので、
    有効に使おうという気持ちが減っているかもしれません。
    学生が携帯メールしか使わないというのは、一般的な傾向なんでしょうね。
    もっとも、今の仕事にpcメールがいいか携帯メールがいいかということは、
    考えれば使い分けられることなので、それができないというのは、
    単に仕事ができないだけ、ということでしょう。社会人として
    未熟なのだと思います。
    そして仕事ができる、段取りができる、気が利くというのは、頭の善し悪しとは
    別で、できない人は仕込まれないと身につかないことなのだと思います。
    弓山先生の日々のご指導は、学生諸君にとっては全くありがたいことですね。

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