読売新聞2005年3月15日のインタビュー

【論陣論客】地下鉄サリン事件から10年
若者と宗教に大きな溝


 ――10年後に振り返ると、オウムが若者を惹きつけた理由は何だったのか。
 弓山 麻原という特異な人間が集団を率いたことなど様々な要因がある。大きな時代的背景をあげるなら、バブル期の豊かな社会で、生きるのに不器用な若者たちが空しさとか、自分探し、癒しなどをキーワードに集まったといえる。
 オウムは宗教団体ではない、犯罪集団であるというのは簡単だが、少なくとも宗教を語る団体であったことは確かだ。モノ、カネを至上のものとする価値観から、精神性や未来志向への揺り返しがあったと言える。
 ――そうした背景に変化は起きているか。
 弓山 大きな変化がある。今の若者は、宗教に関心がない。オウムのようなものに二度と引っかかるか、という教訓が生きているとも言える。しかし一方では、若者たちの内面がどうも薄っぺらになっている感じがしている。
 誤解を恐れずに言えば、オウムに集った人たちは自分と向き合い、自分をどうにか変えてゆきたいという向上心を持っていた。ところが、今はそういう欲求を持たない、ある種淡泊な人々が増えているのではと思われる。各種の世論調査などでも宗教への関心はオウム後に軒並み下がっている。
 ――しかし、事件後にオウム信者になった人もいるというし、他のカルト的な団体も見受けられる。
 弓山 私もそういう人に会ったことがあります。でも、それは極めて特異な例で大きな流れにはなっていないでしょう。
 問題はもっと多くの若者、生きる意義を考えなくともいいのだという若者に、既存の宗教も、教育も家族や地域社会も何も与えなくていいのか、ということです。何も求めない、働かなくともいいという人々がニート60万人と言われています。
 ――そこに宗教的カリスマが現れたら、また危うい?
 弓山 仮にカリスマが現れても、若者の方に自分を変え社会も変えてゆくというある種の求道心がないから集団はできないでしょう。第二のオウムが生まれる余地はないと思います。
 今の人は自由と孤独の中で個々に籠もっている感じですね。1980年代くらいまでは濃密な人間関係やそれに伴う葛藤が残っており、その中で自分の居場所が確認できた。しかし、?年代以降は自由と孤独の中で自己像すら認識できにくくなっており、その傾向がますます強まっているのではないでしょうか。携帯電話、インターネットというツールも影響している。
 ――宗教が必要な時代ということか。
 弓山 宗教は、人間に最も力強い価値観とか生きる意義をもたらしてくれるものですが、意義などなくともいいと思っている若者が多い。学生に「絶対的な価値観なんて持たない方がいい、状況によってコロコロ変わっていいじゃないですか」と言われたことがある。「強い価値観を持つから、『9・11』のような事件が起きる」という訳です。確かに、強い価値観が非常にネガティブに働く危険性があることは否定できない。
 しかし、価値観を持たない人々、あるいは時代というのは空恐ろしいことだと思います。立ち止まって自分を見つめたことのない人は、本当の意味で他人に優しく思いやりのある人間にはなれるでしょうか。何十万という若い世代が、一人で生まれ一人で死んでゆくかのように振る舞う今の日本は、世界的にも特異で不健全な姿かも知れません。
 既存宗教も宗教学者もオウムの暴走を止められませんでした。その反省を踏まえれば、宗教と、孤立する若者とを橋渡しする何らかの手だてを模索しなければいけないと痛感しています。
弓山達也(ゆみやまたつや)氏・大正大学助教授(宗教学)。オウム世代として若者とオウムの関係などを研究。近著に「天啓のゆくえ」など。41歳。

One comment

  1. 古橋のぶゆき より:

    この記事を見て少し質問があったので一言。
    幸福の科学という宗教法人がアニメ映画で儲かってる、というのは耳にしますよね。
    さて、宗教を引き付ける方法としての映画はどう思いますでしょうか?

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