時事通信からインタビュー配信

現実から逃げない自分探しを―オウム事件から学ぶべきこと
 オウム真理教による地下鉄サリン事件から10年が経過した。「自分探し」のために入信した若者は、理想と感じた世界で何も見つけられないまま挫折し、テロ事件に手を染めた。1万人の信者を集めたオウム真理教とは何だったのか。宗教と若者の関係はこの間、どう変容したのか。若者とカルトの研究を続ける弓山達也・大正大学人間科学科助教授(宗教社会学)に聞いた。


・教団が多くの若者を取り込み、勢力を拡大した背景を振り返ってほしい。
 教団が拡大したのは1988年、89年というバブル経済の真っ只中。バブルにむなしさを感じた若者たちが、自分探しや自己実現を求め、麻原という特殊な存在に引き寄せられた。あのバブル中でむなしさを感じる一群がいたことはそれほど不思議ではない。一群の中心は社会の中で限界や壁に突き当たる20代後半から30代前半の層。この層をオウムがぐっと引っ張った。
・なぜむなしいと感じ、高学歴の若者たちが次々と教団の手に落ちたのか
 経済的に繁栄しても、聖書や教会のように生きる意味や価値観の源泉を与えてくれるものが日本にはない。伝統的な宗教はそうした存在になり得ないし、学校は権威がない。家庭や地域などには望むべくもない。そうした中で、「真理はわが手の中にある」と錯覚させるカルト的なものが、浮かれたバブルの中で魅力的に映ったのだろう。
 自分探しは落とし穴にはまりやすい。オウムはそうした一群を利用し、ハルマゲドンを持ち出すなど演出もうまかった。しかし、初期の教団には、麻原教祖の「生きづらさ」を突破する教えと、若者の自分探しへの思いが互いに共鳴し、呼応する関係性もあったようだ。
・若者は自分探しを目標としたが、結局はテロになってしまった。
 「自分」は他者との切磋琢磨の中に見えてくるもの。オウムは、俗世間との関係を断ち切ったヨガ、出家生活の中に自分が見えると言ったが、当然そんなものはなかった。しかし、引きこもり、ニートなどの問題を見ると、そうした考えはむしろこの10年で社会の主流になった。人間関係の濃密さや親密さではなく、自分にこもることで自己実現しようという風潮だ。今はインターネットを中心とする社会全体が、「親密は必要ない」と言っている。オウムは今の風潮を先取りしていたのかもしれない。
・ニートや引きこもりの問題をどう見るか
 オウムの信者には「むなしいから、向上したい」という気持ちがあった。今の引きこもりやニートと呼ばれる人たちは「向上」の意義さえ見出せない。「生きている実感がない」「むなしい」という点でオウムも現代の若者も似たところがある。しかし、ここ10年で、やりたいことを見つけ出す意味が分からないという状況に一層拍車がかかった感じがする。
・宗教と若者の関係は変わったか
 オウム事件の影響で、精神世界への期待感はこの10年でかなり根絶やしにされ、カルトがはびこる余地はない。しかし、これは長期的にみて日本の文化の中で本当によいことなのだろうかとも思う。もう少し自分の魂に関心を払ってもいいのではないか。「ちょっと立ち止まって考えよう」という風潮がなくなったのは残念だ。
・オウム事件から我々は学んだと言えるか
 行政、宗教界、教育界など様々な立場があるがどれも合格点はつけられない。特に教育が問題だ。「生きる喜び」とか「成長の喜び」という基本的なことが伝えられなくなっている。教育界が考えている「生きがいづくり」は整備されないまま未だに暗中模索が続いている。
・現代の若者にメッセージを
 社会の荒波、濃密な人間関係の中で生きていることを実感させる仕組みを、社会の中に作っていくことが必要だと思うが、社会の「ノリ」は悪い。学生をボランティアなどで派遣しようとしても、受け入れるところがない。若者を成長させる手間を社会がおっくうがっている。
 若者には人間関係の葛藤の中から他人と分かり合い、達成感を得る経験が必要だ。濃密な人間関係を「うざい」と言う若者には、「こもって自分を見つめることで自己実現に至る」というオウム的な考えに陥る危険がある。しかし他人を拒絶した自分探しには、どこまでいっても手ごたえがないはずだ。

2 comments

  1. ツイッター より:

    今どこでつながる

  2. 不倫 より:

    この記事にびっくりしたので、コメント残しました。次も書かせてください

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